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教皇の意向:希望の巡礼者 (12月)

年間第六主日(2/13)

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貧しい人々は、幸いである、

ルカ6:20
集会祈願

🌸 第一朗読 (エレミヤ17.5-8)

5主はこう言われる。
呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし
その心が主を離れ去っている人は。
6彼は荒れ地の裸の木。
恵みの雨を見ることなく
人の住めない不毛の地
炎暑の荒れ野を住まいとする。
7祝福されよ、主に信頼する人は。
主がその人のよりどころとなられる。
8彼は水のほとりに植えられた木。
水路のほとりに根を張り
暑さが襲うのを見ることなく
その葉は青々としている。
干ばつの年にも憂いがなく
実を結ぶことをやめない。

🌸 答唱詩編 詩編1 典100 ①②④

🌸 第二朗読 (一コリント15.12、16-20)

 12〔皆さん、〕キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。 
 16死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。 17そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。 18そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。 19この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。
 20しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。

アレルヤ唱 典271 6C

🌸 福音朗読 (ルカ6.17、20-26)

ルカによる福音
 17〔その時、イエスは十二人〕と一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から来ていた。
 20さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
「貧しい人々は、幸いである、
神の国はあなたがたのものである。
21今飢えている人々は、幸いである、
あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、
あなたがたは笑うようになる。
22人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。 23その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
24しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、
あなたがたはもう慰めを受けている。
25今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、
あなたがたは飢えるようになる。
今笑っている人々は、不幸である、
あなたがたは悲しみ泣くようになる。
26すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 人々の中で様々な不思議な業を行い、神の国の到来を告げられたイエスは、いよいよ、ご自身の教えを人々に語られます。しかし、それは、必ずしも、人々の心に伝わったわけではなさそうです。イエスの教えには、なぜ、どうして、まさか、と思うようなこと、逆説的なことがよく含まれています。なぜ、そうなのか、イエスの着想がユニークで、独創的だからでしょうか。

 たとえば、「子どものようにならなければ、神の国に入ることはできない」とあります。しかし、人間として成長することは、大人になること、子どもであることを捨てることではないか。「教育」というものは、言ってみれば、子どもを大人にすることではないですか。

 あるいは、「偉くなりたければ、皆のしもべになりなさい」と言われます。偉くなる、出世する、人々から評価される人間になることは、皆の上に立って指導し、統率する力を身に着けることで、もっぱら人々に仕える僕のような生き方を捨てることではないですか。

 さらに、イエスは言われます、「わたしについて来たい者は、自分の十字架を担って、わたしに従いなさい」と。そう言われて、「はい」、と答えて従う人がどれだけいるでしょうか。

 そして、今読まれた福音のように、イエスは「貧しい人々は幸いである」と言われます。世界を、人間の歴史を覆っている貧困からの脱出することこそが、人類の悲願であり、大目標ではないですか。

 「貧しい人々は幸いである、飢えている人々は幸いである、泣いている人々は幸いである、人々に憎まれ、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである」とイエスは言われます。

 ルカは、さらに、その反対を提示します。「富んでいるあなたがたは不幸である、今、満腹しているあなたがたは不幸である、今笑っているあなたがたは不幸である。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である」と。

 こうした言葉を聞いて、すぐに、「そうだ」と納得する人はどれだけいるでしょうか。それは、イエスの時代も、現代も、そう変わらないと思います。人間は、本能的に、豊かであること、満ち足りていること、楽しく生きること、人々から賞賛を受けることを「よし」として生きています。

 イエスの教えは、立派な理想に聞こえますが、常識的な人間がそれに従って生きるには、あまりにも、現実離れした教えだと言えないでしょうか。イエスは、なぜ、そのような人間性に逆らって、真反対の生き方を提示されるのでしょうか。

 鍵は、今日の第一朗読、エレミヤの預言に隠されています。若い時に神に呼び出され、様々な試練によって鍛えられた預言者エレミヤは言います、「呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼りとしその心が主を離れ去っている人は。彼は荒れ地の裸の木。恵みの雨を見ることなく、人の住めない不毛の地、炎暑の荒れ野を住まいとする」と。逆に、「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない。」

 鍵は、人間が神に信頼し、神を頼りに生きるか否かにかかっています。人間は、神から素晴らしい恵みを与えられ、それを生かして人生を全うするよう招かれています。しかし、同時に、人間は人間を造り、人間に限りない恵みを与えた神の前を歩むように召されています。そして、その神の望み、神の思いに従って生きることが人間のまことの幸せにつながることを預言者、さらには、イエスは教えます。しかし、その神の思いは、人間の思い、常識、理屈と必ずしも合致するものではありません。人間が良しと思うことがすべて、神の望みに適っているとは言えません。時には、人間にとってつらいこと、苦しいこと、信じられないこと、それを受け入れることによって、人間は、より、神の望みに適ったものへと成長するのです。

 イエスは、そうした教えを、言葉だけでなく、自らの生き方によって示してくださいました。特に、その生涯の終わりに、人々から見捨てられ、嘲られ、まさに、貧しさの極限の中で最期を迎えられました。そのイエスを、父なる神は、受け入れ、良しとされ、復活の栄光に導かれました。そして、第二朗読でパウロが説くように、それによってすべての人がその復活にあずかる道を開いてくださったのです。

 こうした神に近づく道を教えられた恵みに感謝し、それを一層深く理解し、日々の生活を通して、その道を歩み続けることができますよう、祈りましょう。(S.T.)

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

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