集会祈願
🌸 第一朗読 (出エジプト17:8-13)
出エジプト記
8アマレクがレフィディムに来てイスラエルと戦ったとき、 9モーセはヨシュアに言った。「男子を選び出し、アマレクとの戦いに出陣させるがよい。明日、わたしは神の杖を手に持って、丘の頂に立つ。」
10ヨシュアは、モーセの命じたとおりに実行し、アマレクと戦った。モーセとアロン、そしてフルは丘の頂に登った。 11モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった。 12モーセの手が重くなったので、アロンとフルは石を持って来てモーセの下に置いた。モーセはその上に座り、アロンとフルはモーセの両側に立って、彼の手を支えた。その手は、日の沈むまで、しっかりと上げられていた。 13ヨシュアは、アマレクとその民を剣にかけて打ち破った。
🌸 答唱詩編 詩編121 典71 ②③④
🌸 第二朗読 (二テモテ3:14~4:2)
使徒パウロのテモテへの手紙
14〔愛する者よ、〕自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、 15また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。 16聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。 17こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。
1神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。 2御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。
アレルヤ唱 典270 29C
🌸 福音朗読 (ルカ18:1-8)
ルカによる福音
1〔そのとき、〕イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。 2「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。 3ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。 4裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。 5しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」 6それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。 7まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。 8言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」。ルカの福音には、祈りについての言葉がよく出るし、主イエスが大事な場面で必ず祈っておられたことも記す。公生活も次第に終わりが近づいた時点で語られた今日の言葉は何を語っているのだろう。
「やもめと裁判官」のたとえ、と題されているが、聖書の中で、やもめは社会の中で最も弱い立場に置かれたものとして、旧約聖書にも度々登場する。「孤児、やもめ、外国からの寄留者」を大切にするようにという言葉は、律法や預言者の言葉に繰り返し登場する。しかし、現実には、彼らの弱さに付け込んで、様々な不正を働く人間、さらには裁判官がいた(イザヤ10.1∼2)ことも事実のようだ。そうした裁判官に代わって、神自らお裁きになることを、詩編は語る、「とこしえにまことを守られる主は虐げられている人のために裁きをし、飢えている人にパンをお与えになる。」(詩146.7)、と。
様々な苦しみに悩むやもめは裁判官に訴えるが、彼は取り合おうとしない。しかし、「うるさくてかなわないから、彼女のために裁判してやろう」と言う。そんなたとえを引き合いに、主は言われる、「神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。」と。
ルカがこうした言葉を記したのは、主イエスの十字架上の死、そして、復活後、数十年が経った1世紀も終わりが近づいた頃のこと。教会の発展の基礎が築かれた時代とはいえ、実際には、同胞ユダヤ人からの迫害によりエルサレムを追われ、さらには、新しい権力機構、ローマ帝国の支配下にあって、自分たちの信仰を公言し、神の国の到来を確信するにはほど遠い状況だったのではないか。
当初、人々が抱いていた世の終わり(終末)が近いという考えは、否定されたとはいえ、イエスを信じ、イエスに従った自分たちの将来はどうなるのか、という素朴な不安・恐れがキリスト者の間に広まっていたとしても不思議ではない。そのような状況の中で、イエスの言葉は大きな支えと励ましになったのではないか。「気を落とさずに絶えず祈りなさい」。
わたしたちが生きる現代、人類が抱えている問題はかつて以上に大きく、深く、容易な解決の見えないものばかりに思われる。以前からあった国家や民族間の緊張・紛争に加え、ウクライナで突然始まった想像を超える戦争の悲惨な現実、そして、東アジアの隣国から迫られる緊張。そして、フランシスコ教皇が、近年の回勅「ラウダ―ト・シ」で言及される地球温暖化の問題、さらには、最新の回勅「兄弟の皆さん」で触れられる世界全体に及ぶ経済格差、貧困、飢餓の問題等々。また、わたしたち自身が日々直面する家族の問題、仕事上の問題等。キリストを信じ、すべてをキリストに託したわたしたちも、人間の無力さやるせなさを感じ、時に、希望を失い、呆然自失に陥ることも少なくないかもしれない。しかし、主は言われる、「気を落とさず、祈りなさい」と。
エジプトの奴隷状態から解放され、約束の地に向かうイスラエルの前に立ちはだかるアマレク人との戦い。モーセが手を上げている間=神に祈っている間、イスラエルは優勢となり、手を下ろすとアマレクが優勢になった、と第一朗読で読まれた「出エジプト記」は記します。困難を乗り越えることができたのは、自分たちの力ではなく、神への祈りがあってのことです。
世を去る時が近づいたことを知ったパウロは、愛する弟子テモテに書き送ります、「神の前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます、御言葉を宣べ伝えなさい。」と。
これは、今の時代に生きるわたしたちにも語られた言葉です。「折が良くても悪くても励みなさい。」御言葉を宣べ伝える、それは、主イエスへの信仰を、確信をもって、人々の前で生きることです。どのような状況に置かれても、わたしたちが、自分の力や知恵に頼って生きるのではなく、神がわたしたちを支え、導き、生かして下さることを行動をもって、生き方を通して、人々に示すことです。
わたしたち、キリスト者の存在意義は、それがどんなに小さい働きに見えるとしても、この人間の思い通りにならない現実の中に、あの復活された主が生き、働いておられることを告げ知らせることだと、あらためて悟る恵みを祈ろう。(S.T.)
分かち合いに感謝!
朝まで祈ります。勿論、夢の中でも。