集会祈願
🌸 第一朗読 (黙示録15:1-4)
ヨハネの黙示
1わたし〔ヨハネは、〕天にもう一つの大きな驚くべきしるしを見た。七人の天使が最後の七つの災いを携えていた。これらの災いで、神の怒りがその極みに達するのである。
2わたしはまた、火が混じったガラスの海のようなものを見た。更に、獣に勝ち、その像に勝ち、またその名の数字に勝った者たちを見た。彼らは神の竪琴を手にして、このガラスの海の岸に立っていた。 3彼らは、神の僕モーセの歌と小羊の歌とをうたった。
「全能者である神、主よ、
あなたの業は偉大で、
驚くべきもの。
諸国の民の王よ、
あなたの道は正しく、また、真実なもの。
4主よ、だれがあなたの名を畏れず、
たたえずにおられましょうか。
聖なる方は、あなただけ。
すべての国民が、来て、
あなたの前にひれ伏すでしょう。
あなたの正しい裁きが、
明らかになったからです。」
🌸 答唱詩編 詩編98 典149 ①④
アレルヤ唱 典274 ⑦
🌸 福音朗読 (ルカ21:12-19)
ルカによる福音
12〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。 13それはあなたがたにとって証しをする機会となる。 14だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。 15どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。 16あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。 17また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。 18しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。 19忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
迫害はキリスト教の歴史の中で、繰り返し起きてきた。初期のキリスト者がユダヤ人から受けた迫害。ローマ帝国の中で、何度も起きた厳しい迫害。近世ヨーロッパでは、キリスト教同士で行った迫害。日本やアジアで現地の人々から受けた迫害、新大陸で宣教師たちが受けた迫害。20世紀になってからも様々な形でキリスト教に浴びせられた迫害・弾圧。キリスト教の発展と迫害は切り離すことができないかのよう。
今日のルカの箇所は、終末の出来事の一つとして迫害が考えられているが、マタイ・マルコでは、イエスに従う弟子の生き方には、必ずついてくるものとして捉えられている。福音の終わりではなく、早い段階で、弟子への戒めの言葉の中に含まれているのはそのためだろう。
一つ注目したいのは、迫害にあったときに、どう答えるかという点。イエスは言う、「前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも対抗も反論もできないような言葉と知恵を授ける」と。マタイ・マルコでは、「心配するな。言うべきことは教えられる。語るのは、聖霊、父の霊である」と。つまり、迫害の苦しみの中で、キリストを信じる者の努力以上に、神が大いなるみわざを行われる、神自らが、ご自分を証しなさるということである。(S.T.)
スマホでではあるが、聖イグナチオ教会の教会黙想会とミサに与った。イエズス会日本管区長のレンゾ・デ・ルカ神父様が担当された。主の平和を頂いた。
まず、長崎の西坂を至福の丘、恵の丘と呼ぶことを改めて知った。デ・ルカ師が言われた通り、信仰の目で見なければ単なる不幸の丘になってしまう。
例えば統一協会問題にしても未だ日本は霊的混乱の中にある。否、霊的混乱が悪いのでなく、霊的混乱を突き抜けることを知らないのだ。
長崎の西坂を中心にした日本史の本があればぜひ読みたい。日本も世界も真の救済を求めているのだから。
また、来日中のフランシスコ教皇が車中で、これからお会いになる人々に対し言葉が失礼にならないか、とデ・ルカ師に尋ねられたとの話は、失礼千万が服着て歩いていると自称し自らの言動に無頓着だった自分を顧みるきっかけになった。
教皇様は、単なる気遣いとかを超えて、真の福音宣教を考えていらっしゃるゆえだと思う。
全能の神が有限な人となられたことを思えば、柔和で謙遜が基本だと改めて自分の振る舞いを反省している。
だだ、言い訳がましいことを言えば、ここ6、7年は私自身、戦闘モードであった。教会黙想会も、2016年11月23日ヨセフをテーマにシスターが担当され、主聖堂でともに講話に与った佐々木師と挨拶を交わして以来である。
「社会生活においては義理とか礼儀とかいう面目主義が大いなる役割を演じるが、陣中生活においてはこれは第二義的なものとなり、将校と兵隊のへだたりも無くなり、兵隊と兵隊との親しみが本当に深い、猫かぶりでない友情となるのである」
カンドウ師
この世にいる以上、霊的には常在戦場だが、時には、休息が欲しい。
また、社会生活にも陣中生活にも真の友情は必須だ。
イエスの仲間と神に感謝。
高校一年の夏休み前、図書館で三木清全集の一冊を借りてアルバイト先のコンビニに寄ったら、早大文学部の先輩が「こんなまじめな本を、、」と言った。戦時中の思想犯や弾圧や迫害に魅力を感じていた。
だが、昨日の分かち合いにある通り、それは、思想云々ではない。未だ神を知らぬ者として神にひかれていたのだろう。
そして、今日の分かち合いにある通り、迫害と救いの喜びは表裏一体だ。イエスは宣教の最初にマタイ5章冒頭の山上の垂訓ではっきり言っている。日本語の翻訳には、はっきり出てないが、迫害を受ける者に至福をもたらす者は、分かち合いが示す通り、神だ。
同調圧力と制度的暴力という偽りの平和主義が支配する日本で、つい声を上げてしまう私は、柔和と謙遜の恵みを祈り求めたい。