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教皇の意向:希望の巡礼者 (12月)

年間第三十二火曜日(11/14)

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わたしどもは取るに足りない僕です。

ルカ17:10
集会祈願

🌸 第一朗読 (知恵2・23~3・9)

23神は人間を不滅な者として創造し、
御自分の本性の似姿として造られた。
24悪魔のねたみによって死がこの世に入り、
悪魔の仲間に属する者が死を味わうのである。
1神に従う人の魂は神の手で守られ、
もはやいかなる責め苦も受けることはない。
2愚か者たちの目には彼らは死んだ者と映り、
この世からの旅立ちは災い、
3自分たちからの離別は破滅に見えた。
ところが彼らは平和のうちにいる。
4人間の目には懲らしめを受けたように見えても、
不滅への大いなる希望が彼らにはある。
5わずかな試練を受けた後、豊かな恵みを得る。
神が彼らを試し、
御自分にふさわしい者と判断されたからである。
6るつぼの中の金のように神は彼らをえり分け、
焼き尽くすいけにえの献げ物として
受け入れられた。
7主の訪れのとき、彼らは輝き渡り、
わらを焼く火のように燃え広がる。
8彼らは国々を裁き、人々を治め、
主は永遠に彼らの王となられる。
9主に依り頼む人は真理を悟り、
信じる人は主の愛のうちに主と共に生きる。
主に清められた人々には恵みと憐れみがあり、
主に選ばれた人は主の訪れを受けるからである。

🌸 答唱詩編 詩編 典

アレルヤ唱 典

🌸 福音朗読 (ルカ17・7-10)

ルカによる福音

 7あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。 8むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。 9命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。 10あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 ルカは今日もまた、自己満足についての警告を発している。このたとえ話を読むとき、他の多くのたとえ話と同様に、大時代の問題を引きずって事柄を混乱させないように注意しなければならない。イエスは問われる:

 あなたがたの中で、畑を耕したり羊の世話をしていた奴隷に、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。

 座って食事をし、ゆっくり休むようにと誘うだろうか。

 「むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。
 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。」

 ここで、組合規則や民主主義などという現代の考えを忘れよう!イエスの時代には、雇い主であれ奴隷であれ、誰もイエスの言っていることに疑問を持とうとは少しも思わなかっただろう。同時に、注意深いしもべは主人に歓迎され、主人は彼らを座らせて自ら待ってくれる(ルカ12:37参照)、イエスは奉仕の模範として弟子たちの足を洗われた、とイエスは言われたことを思い出すかもしれない。

 ここで私たちが扱っているのは、神との関係である。イエスの言わんとするところは、神は私たちが神にしてあげたことに対して、決して感謝する必要はないということだ。私たちがどれだけ神に尽くしても、神に借りを作ることはできない。私たちが神に(あるいは他者を通して神に)捧げるものはすべて、神がすでに私たちに与えてくださったもののほんの一部を、神にお返ししているにすぎないのだ。平日のミサのための序文IVにこうある:

 あなたは私たちの賛美を必要とされませんが、私たちがあなたに感謝すること自体が、あなたからの賜物なのです。私たちの感謝の祈りは、あなたの偉大さに何の足しにもならず、あなたの恵みの中で私たちを成長させるのです。

 神は決して私たちに負債を負うことはありません。私たちに対していかなる義務も負うことはない。おそらく、ファリサイ派の人々の中にはそう考えていた者もいただろう。彼らは律法を完璧に守ったから、神は自分たちに救いの借りがあると思ったのだ。ファリサイ派の人が神殿で徴税人とともに祈る場面では、ファリサイ派の人の祈りが、多くの怠慢な人々の中にあって、彼のような善良な人がいることを神は深く感謝すべきだという印象を与えている。

 例えば、ある祈りを唱えたり、ある行為(ノヴェナ、免罪符、巡礼など)を行ったりすることで、神が注意を引き、私たちが求めているものを与えてくれるはずだと考えるとき、私たち自身も同じことをする可能性がある。

 私たちが福音に忠実に生きることは、神への賛辞ではない。それどころか、イエスが教えてくださった真理、愛、自由、幸福への道を私たちに示してくださり、その道を歩む恵みを与えてくださる神に、私たちはいくら感謝を捧げても足りないほどなのだ。神のもとでは、私たちが捧げるものはすべて、不完全で部分的なお返しにすぎない。

Living Spaceより

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

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