集会祈願
🌸 第一朗読 (ローマ13.8-10)
8〔皆さん、〕互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。 9「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。 10愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。
🌸 答唱詩編 詩編112 典99 ①④
アレルヤ唱 典270 23C
🌸 福音朗読 (ルカ14.25-33)
ルカによる福音
25〔そのとき、〕大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。 26「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 27自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。 28あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。 29そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、 30『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。 31また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。 32もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。 33だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
ルカの福音書は、その両極端さにおいて注目に値する。 一方では、イエスがその信奉者となる人々に過激で妥協を許さない要求を示すと同時に、他の福音書にはない、罪深い者や弱い者に対するイエスの優しさと憐れみを強調している。 この二つの絵は常に同時に視野に入れなければならず、決して矛盾するものではない。 今日と明日、私たちはこの二つのイエスの姿を背中合わせに見ることになる。
今日の箇所では、よくあるように、イエスが大勢の群衆に囲まれているのが見える。 彼らは熱意と期待に満ちているが、イエスはすぐに彼らを引き止める。イエスは言われる:
「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」
これは非常に衝撃的な要求であり、特に、人々の全生涯が家族を中心としていた社会にとってはそうである。 ルカはただ一人、妻さえも捨て去るように求めているが、これはイエスに従うというコミットメントの総体を示す一例に過ぎない。
ただし、2つの条件をつけなければならない。 第一に、「憎む」という言葉はセム語の表現であり、文字通りに受け取ってはならない。 イエスの教えのすべてが、血縁者だけでなく、他人や敵さえも愛することに基づいているのだから。 これはむしろ、キリストとその使命への全面的な献身よりも、たとえ親しい人であっても、どんな人でも優先させる人は弟子になる準備ができていないということを、ドラマチックに表現したものなのだ。 ここでは妥協は許されない。
第二に、イエスは文字通り家族を捨てることを勧めているのではない、ということも言わなければならない。 それは非常に無責任であり、普遍的な愛の戒めに違反することになりかねない。しかし、イエスの働きの一部となりたい者は、完全に、無条件に自分自身を捧げなければならないことは明らかである。 そして、福音の明確な呼びかけと個人的な愛着との間で選択がある場合には、後者を手放さなければならない。
群衆がこれを聞くことは重要だ。キリストに従うことは、サッカーファンがお気に入りの選手を追いかけたり、「グルーピー」がポップスターを街から街へと追いかけたりするようなものではない。 支払うべき代価があり、それが何であるかを知る必要がある。その代価とは十字架であり、福音と御国建設のために各自が覚悟しなければならない犠牲と苦しみのレベルである。
このことを説明するために、イエスは二つの例を挙げている:
一つ目は、塔を建てる計画を立てていた人の話である。そうする前に、必要なものをすべて持っていることを確認した。 そうでなければ、基礎を築いた後、その仕事を完成させることができず、周囲の笑いものになってしまうからだ。 「ハッ、ハッ!彼は完成できないものを建て始めたのだ」。
二つ目の例でイエスは、1万人の兵士を持つ王が、2万人の兵士を持つ別の王と戦争することになったと話す。 勝つ見込みがないと考えた王は、使節を派遣して、最高の和平条件を交渉する。同じように、自分の持っているものすべてを手放す準備ができていない者は、イエスの弟子にはなれないとイエスは言う。
イエスに従うことは、絶対的で無条件でなければならない。聞いていた群衆の何人がその準備ができていただろうか? 私たちの何人がその準備ができているだろうか? 私は準備ができているだろうか? そして、私がしがみついているものは何だろう? 私が手放せないものは何だろう? それはなぜだろう?
イエスの弟子になるということは、絶対に自由になるということだ。 それは、アッシジのフランシスコが家族を捨て、裕福で派手な服をすべて脱ぎ捨て、乞食のボロ布と取り替えたとき、とてつもない喜びと解放感に満たされたことを思い起こさせる。 私はイエスの弟子になりたいだろうか? どこまで? イエスが求める代価を払う覚悟はできているだろうか?
もちろん、いったん代価を払えば、多くの見返りが得られるという逆説もある。聖フランシスコやカルカッタの聖テレサ(マザー・テレサ)に聞いてみてください。
Living Spaceより