集会祈願
🌸 第一朗読 (イザヤ8:23b~9:3)
8b先に
ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが
後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた
異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。
9-1闇の中を歩む民は、大いなる光を見
死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
2あなたは深い喜びと
大きな楽しみをお与えになり
人々は御前に喜び祝った。
刈り入れの時を祝うように
戦利品を分け合って楽しむように。
3彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を
あなたはミディアンの日のように
折ってくださった。
🌸 答唱詩編 詩編27 典73 ①②⑥
🌸 第二朗読 (一コリント1:10-13、17)
使徒パウロのコリントの教会への手紙
10兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。 11わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。 12あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。 13キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。
17キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。
アレルヤ唱 典
🌸 福音朗読 (マタイ4:12-23または4:12-17)
マタイによる福音
12イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。 13そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。 14それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
15「ゼブルンの地とナフタリの地、
湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、
異邦人のガリラヤ、
16暗闇に住む民は大きな光を見、
死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
17そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
18イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 19イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 20二人はすぐに網を捨てて従った。 21そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。 22この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
23イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
来週、今季最大の寒気が日本列島を襲う予報が出ています。クリスマス前後のような豪雪等による被害が出ないように祈りましょう。年が明けて3週間、生活も落ち着いてきたところですが、わたしたちが日々経験する社会を見ると、とても希望に満ちた年が明けたという気持ちになれません。コロナは2類から5類に引き下げられると言われながら、まだ、近くには感染に苦しむ方がたくさんおられます。ロシアとウクライナの間の戦争状態が引き起こした経済不況は、わたしたち日本の経済にも深刻な影響を及ぼしています。中国や北朝鮮の脅威に対抗して防衛費の増額が急遽決定され、一時停止されていた原発の再開発が日程に上ろうとしています。こうした社会の動きの中で、日々、陰惨な事件も繰り返されています。
そんな社会の動きの中で、教会は、そして、わたしたち教会に集うわたしたちは、何に希望をおいて生きるよう教えられているのでしょうか。今日、年間第三主日は、「神のみことばの主日」と定められていますが、今日のみ言葉は何を語っているのでしょうか。今日の典礼のテーマは、「光」と言ってよいでしょう。暗い冬の日に、人が切に願うのは、明るい太陽の光です。太陽が顔を出すだけで、一日は明るいものになります。人間はだれもが光を求めて生きていますが、聖書が語る光とは、どのようなものでしょうか。それは、必ずしも、人間が期待しているようなものではありません。人間の期待を裏切るような、思いもしない形で現われる光であるかもしれません。そんな開かれた心で、今日のみ言葉を振り返ってみましょう。
今読まれたマタイの福音は、イエスが公の活動を始められた時のことを語ります。「イエスはヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」と。いよいよ活動が始まるという時、イエスが身を寄せられたのは、いわば、避難先のようなガリラヤでした。ガリラヤは、イエスが弟子たちと過ごし、人々に福音を語った、懐かしい、牧歌的な世界のような印象を受けますが、実は、当時宗教指導者たちがローマと結託してユダヤを治めていたエルサレムからも、領主ヘロデの居城のある町からも離れた、いわば避難先のような地だったのです。マタイは、第一朗読でも読まれた預言者イザヤの言葉を引用して言います、「ゼブルン地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」と。今日の「聖書と典礼」の注にあるように、「預言者イザヤの時代北イスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、ガリラヤ地方はその支配下に入れられてしまっていた」のです。そのような、忘れられた地、歴史の中に葬られてしまった地を、イエスはあえて、活動のはじまりの地、そして、拠点と定められたのです。「闇の中に輝く光」とクリスマスの典礼で語られた光が、今、そこから輝き出ようとしていたのです。
その地でイエスが最初に語られた言葉、それは、洗礼者ヨハネが語った言葉と重なります。「悔い改めよ。天の国は近づいた」と。かつて力をもってイスラエルを治めた王たちの国、ヘロデの王国でなく、ローマ皇帝の国でもなく、神ご自身が支配する世界、「神の国」が今始まろうとしている。それがどのような世界なのか、それは、これからイエスが語る言葉、イエスがなさる振舞、そして、その存在、生涯そのものがおのずと語るものです。
そして、それを聞いて、本心から受け止めようとした人、そこに光を感じ、それに従おうとした人、それは、クリスマスのメッセージを聞いた、貧しく名もない羊飼いのように、聖書について学び、神からの様々な恵みによって導かれてきたユダヤ人指導者ではなく、ごく平凡な、否、都会の人々からすれば、貧しく、教養もなく、日々の生活に追われる「地の人々」でした。ガリラヤ湖で魚を漁ることを生業とする「漁師」。旧約聖書には、ほとんど登場しない、この職業に自らと家族を養う道を求める素朴な人々。日々の働きの中で、繰り返し、裏切られ、危険にさらされ、僅かな収穫に満足し、それでも挑戦し続けるしかない日々を送る人々。そうした彼らをイエスはお呼びになります。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」彼らは、網を捨て、舟を捨て、親を残してイエスに従います。彼らは、イエスの言葉に、その存在に、無意識のうちに求めていた真の「光」を見たのです。
光を見た者、光を浴びた者は変えられます。自分の努力によってではなく、神の恵みによって変えられます。自分中心の狭い世界から、神が導かれる広い世界、様々な課題を抱える人々に開かれた世界に向って出て行く人に変えられます。「人間をとる漁師にしよう」という言葉はそうした意味の言葉でしょう。自分が経験した喜びを人に伝え、分かち合う人、人々を神のもとにお連れする人に変えられます。しかも、一人ではなく、同じ経験をした仲間と共に、主の導きと力に希望を寄せて歩んでゆくのです。わたしたちも、また、それぞれが召されたガリラヤで、光である主に出会い、それまでの生き方から離れ、主に従う弟子、主の友として呼ばれたことを感謝し、その招きに日々応え、たとえ小さくとも、光を輝かせるものとなれますよう祈りましょう。(S.T.)