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教皇の意向:希望の巡礼者 (12月)

四旬節第五金曜日(3/22)

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父が与えてくださった多くの善い業を示した

ヨハネ10:32
集会祈願

🌸 第一朗読 (エレミヤ20.10-13)

10わたしには聞こえています
多くの人の非難が。
「恐怖が四方から迫る」と彼らは言う。
「共に彼を弾劾しよう」と。
わたしの味方だった者も皆
わたしがつまずくのを待ち構えている。
「彼は惑わされて
我々は勝つことができる。
彼に復讐してやろう」と。

11しかし主は、恐るべき勇士として
わたしと共にいます。
それゆえ、わたしを迫害する者はつまずき
勝つことを得ず、成功することなく
甚だしく辱めを受ける。
それは忘れられることのない
とこしえの恥辱である。
12万軍の主よ
正義をもって人のはらわたと心を究め
見抜かれる方よ。
わたしに見させてください
あなたが彼らに復讐されるのを。
わたしの訴えをあなたに打ち明け
お任せします。

13主に向かって歌い、主を賛美せよ。
主は貧しい人の魂を
悪事を謀る者の手から助け出される。

🌸 答唱詩編 詩編18 典64 ①⑤

詠唱 典263 ⑫

🌸 福音朗読 (ヨハネ10.31-42)

ヨハネによる福音

 31〔そのとき、〕ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。 32すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」 33ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒瀆したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」 34そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。 35神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。 36それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒瀆している』と言うのか。 37もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。 38しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」 39そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。
 40イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。 41多くの人がイエスのもとに来て言った。「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」 42そこでは、多くの人がイエスを信じた。

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 明後日、28日は受難の主日(枝の主日)です。その日から聖週間に入ります。復活祭を前にして、主の苦しみに与り、追体験をする時です。今日の典礼にも、やや重苦しいテーマが流れています。第一朗読のエレミヤの預言では、預言者が経験した苦しみと、主への嘆きの訴えが、そして、先ほど聞かれた福音の初めには、イエスがまさに受けようとする苦しみが告げられます。「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、石を取り上げた。」これは、初めてのことではありません。ヨハネ福音書の中では、こうしたイエスを亡き者にしようとするたくらみが何回も、波状攻撃のように襲ってくる様子が記されています。
 どうしてイエスを亡き者にしようとユダヤ人はたくらんだのでしょうか。それは、共観福音書にあるように、安息日の律法を破る、安息日に病人を癒す働きをしたということもあります。しかし、ヨハネでは、それよりもイエスが繰り返す主張、神を自分の父と呼び、自分を神と等しいものとしたからです。人間でありながら、自分を神とする、神と同一化する、この冒涜にほかならない言明を、熱心なユダヤ人は許すことができなかったのです。
 しかし、ユダヤ人の中にはイエスを信じた人もいました。今日の福音の最後にあったように、「多くの人がイエスを信じた」。これも、ヨハネ福音書のはじめから繰り返し聞く言葉です。あのカナで行われた最初の奇跡の後、「弟子たちはイエスを信じた」と記されています。また、サマリアの女と言葉を交わされた後、女の言葉を聞いて、さらには、直接イエスに出会って、「多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた」とあります。イエスの言葉を聞き、イエスのわざを見てイエスを信じた人、神から遣わされた人だと、あるいは、この方こそメシアだ、神の子だと信じた人は少なくありませんでした。しかし、信じない人、信じようとしない人が、聖書を学んだ、律法に詳しい、真面目な人々の中に、少なからずいたことも事実です。ユダヤ人がすべてイエスを否認したわけではありません。ニコデモやアリマタアのヨセフのような人もいました。しかし、ヨハネは、この信じようとしない人々を「ユダヤ人」というレッテルを貼って記しています。
 わたしたち信仰者の中にも、イエスを信じようとしない心があるかもしれません。自分の考え、自分の判断をいつも優先させ、神に心を開こうとしない態度、また、イエスが神からの方であることを認めようとしない心があるかもしれません。聖霊によって、そうした心を浄めていただきましょう。そして、神に開かれた心をもって、人となられた神の子、イエスの苦しみに少しでも与り、イエスと共に、復活の喜びを味わうことができるよう祈りましょう。(S.T.)

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

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