集会祈願
🌸 第一朗読 (イザヤ43:16-21)
イザヤの預言
16主はこう言われる。
海の中に道を通し
恐るべき水の中に通路を開かれた方
17戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し
彼らを倒して再び立つことを許さず
灯心のように消え去らせた方。
18初めからのことを思い出すな。
昔のことを思いめぐらすな。
19見よ、新しいことをわたしは行う。
今や、それは芽生えている。
あなたたちはそれを悟らないのか。
わたしは荒れ野に道を敷き
砂漠に大河を流れさせる。
20野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。
荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ
わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。
21わたしはこの民をわたしのために造った。
彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。
🌸 答唱詩編 詩編126 典154①②③
🌸 第二朗読 (フィリピ3:8-14)
使徒パウロのフィリピの教会への手紙
〔皆さん、わたしは、〕わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、 9キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。 10わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、 11何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
12わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。 13兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、 14神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。
アレルヤ唱 典
🌸 福音朗読 (ヨハネ8:1-11)
ヨハネによる福音
〔そのとき、〕1イエスはオリーブ山へ行かれた。 2朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。 3そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、 4イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。 5こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」 6イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。 7しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 8そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。 9これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。 10イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」 11女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
四月になって、学校・会社・お役所等、それぞれ新年度に入り、新しい気持ちでスタートしています。天使幼稚園も、新しいメンバーを迎え、昨日から新年度が始まりました。教会も、来週は受難の主日、そして、聖週間、復活祭、と大事な時期を迎えようとしています。四旬節第五主日の今日、朗読箇所として与えられたみ言葉を味わい、復活祭を迎えるふさわしい準備をいたしましょう。
先週、教会は、有名なルカの「放蕩息子」のたとえを聞いて、神のあふれるほどのいつくしみの愛を味わいました。今日は、それに続いて、神のゆるしの愛を如実に表す「姦通の女」の話を聞きました。ヨハネ福音書の8章のはじめに記されていますが、ルカの福音書に近い特徴がいくつもあり、本来、ルカのものだったのではないかと言われています。
いずれにしても、生きるためにやむを得ず、自らの体を売るという、罪の道に入ってしまった女性と、律法で許されない行為を行った女性に、イエスがどのような態度を示すか、試そうとしたユダヤ人の話です。律法によれば、理由はともかく、この行為に及んだことで、「石殺し」という厳しい裁きを免れません。はたして、イエスがそうした裁きを行うか、はたまた、寛容に女をゆるすことで、律法違反に及ぶのか、律法学者やファリサイ派の人々はイエスを罠にはめようとしたのです。
イエスがどのような態度を取られたかは、皆様よくご存じです。イエスが彼女を罪に定めなかったことは当然ですが、同時に、イエスをわなに欠けようとしたユダヤ人に対しても、厳しく反論されたわけでもありません。ただ、だまって、「かがみこみ、指で地面に何か書き始められた」とあります。何を書かれたかわかりません。どのくらいの時間が過ぎたのかわかりません。しかし、しつこく問い続ける人々に向かって、イエスは、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われます。そして、再び、身をかがめて地面に書き続ける間に、人々は、「年長者から始まって、一人また一人、と立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った」と記します。
イエスは女を断罪されず、しかも、糾弾しようとした男たちにも厳しい言葉を発することもされません。放蕩の末、帰郷した弟を歓迎した父親が、それを快く思わなかった兄に対しても、辛く当たらなかったように、イエスは、罪の生活にはまった女性を断罪しなかっただけでなく、断罪を期待した人々をも、見逃がしておられたのです。
7年前、教皇フランシスコは『いつくしみの特別聖年』を設定され、神のいつくしみの豊かさについて、深く黙想する機会を与えられましたが、その聖年の終わりに、アウグスティヌスの言葉に基づくと言われる、『あわれみあるかたとあわれな女』(Misericordia et misera)という題の「使徒的書簡」を発表されました。その冒頭に、今日の福音の話を紹介しておられますが、その中で、教皇は、神の慈しみの豊かさを知ったわたしたちが、ただそれを味わい、喜ぶだけでなく、ゆるしの恵みを受けることで、「いつくしみの道具」、「和解の奉仕者」となり、さらには、「いつくしみの文化」を推し進めるようにと、勧めておられます。
そのためには、まず、わたしたちが「ゆるされた者」であることをしっかり認識しなければなりません。わたしたちは、とかく、「放蕩息子」の兄のように、あるいは、ファリサイ派の人々のように、自分のありのままの現実を棚上げして、他の人々を裁いたり、断罪したりしがちです。自らも罪びとであること、しかし、主のいつくしみによって罪をゆるされ、その愛によって、変えられ、生かされていることを自覚することが大切です。その上で、ゆるされた者、主の愛に受け入れられた者としての喜びを生き、人々にあらわす使命を果たしてゆきましょう。そして、可能であれば、また、機会があれば、自分の回りで、様々な困難や、悩み、痛みを抱えている人、生活面で必要を感じている人々に、寛大な奉仕をするよう招かれていることを忘れないようにしましょう。この狭い、日本だけでなく、遠く離れた地にあっても、様々な理由で苦しんでいる兄弟姉妹のために、祈り、彼らのためにできることを捧げるよう努めましょう。
先日、カリタスJapanから依頼があった「ウクライナ危機人道支援活動」に多くの方が協力されたことは嬉しいことです。四旬節「愛の献金」にも、引き続き協力いたしましょう。
こうした協力を通して、教皇が「いつくしみの文化」と呼ばれた、お互いに開かれた世界の実現に向けて、小さな貢献ができたら素晴らしいと思います。(S.T.)