Generic filters
Exact matches only
Filter by content type
Comments
Attachments

教皇の意向:希望の巡礼者 (12月)

四旬節第二土曜日(3/2)

FacebookTwitterEmailLinePrintFriendly

子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる

ルカ15:31
集会祈願

🌸 第一朗読 (ミカ7:14-15、18-20)

ミカの預言

〔主よ、〕14あなたの杖をもって
御自分の民を牧してください
あなたの嗣業である羊の群れを。
彼らが豊かな牧場の森に
ただひとり守られて住み
遠い昔のように、バシャンとギレアドで
草をはむことができるように。
15お前がエジプトの地を出たときのように
彼らに驚くべき業をわたしは示す。
18あなたのような神がほかにあろうか
咎を除き、罪を赦される神が。
神は御自分の嗣業の民の残りの者に
いつまでも怒りを保たれることはない
神は慈しみを喜ばれるゆえに。
19主は再び我らを憐れみ
我らの咎を抑え
すべての罪を海の深みに投げ込まれる。
20どうか、ヤコブにまことを
アブラハムに慈しみを示してください
その昔、我らの父祖にお誓いになったように。

🌸 答唱詩編 詩編 典

アレルヤ唱 典

🌸 福音朗読 (ルカ15:1-3、11-32)

ルカによる福音

 〔そのとき、〕1徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 3そこで、イエスは次のたとえを話された。
 11「ある人に息子が二人いた。 12弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。 13何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。 14何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。 15それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 16彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。 17そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。 18ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 19もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 20そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 21息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 22しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。 23それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 24この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
 25ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。 26そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。 27僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』 28兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。 29しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。 30ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』 31すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。 32だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

「放蕩息子のたとえ」という名前がいつから使われたかわからないが、この呼び方に惑わされて、つい、弟の方にだけ目が向いてしまう。弟の回心は実に感動的である。しかし、この話は、後半の兄の話まで読まなければ、本当に読んだことにならない。
福音の始めにあったように、このたとえは、徴税人や罪人がイエスのもとにやって来たとき、ファリサイ派の人々が、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」という非難に答えたもの。
 イエスは、ユダヤ人社会の中で、「罪人」とレッテルを貼られた人々に敢えて近づき、彼らの友となられた。自分たちこそが神に選ばれ、神を喜ばせるものだ、という誇り高いユダヤ人は納得できなかった。しかし、イエスは、神が、人々から罪人と指さされ、自らも罪深い者と認める人々を、排斥するどころか、もろ手を挙げて迎え入れる方であることを教えようとされた。さらには、弟を受け入れることができなかった兄のように、罪人とされる人々を受け入れず断罪するファリサイ派の人々が、彼らをも受け入れる父の無限の愛を信じることができるように、彼らも回心する恵みを必要としていることを教えているのではないか。
 人をわけ隔てなさらない神の前に、すべての人が、この信じられないほど大きな愛に心を開き、救いを受け入れることができるように、そして、救いが自分の努力ではなく、神の無償の愛によるものであることを悟る恵みを祈ろう。(S.T.)

FacebookTwitterEmailLinePrintFriendly

御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

コメントする