集会祈願
🌸 第一朗読 (イザヤ52:7-10)
イザヤの預言
7いかに美しいことか
山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。
彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え
救いを告げ
あなたの神は王となられた、と
シオンに向かって呼ばわる。
8その声に、あなたの見張りは声をあげ
皆共に、喜び歌う。
彼らは目の当たりに見る
主がシオンに帰られるのを。
9歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。
主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。
10主は聖なる御腕の力を
国々の民の目にあらわにされた。
地の果てまで、すべての人が
わたしたちの神の救いを仰ぐ。
🌸 答唱詩編 詩編98 典149 ①②③
🌸 第二朗読 (ヘブライ1:1-6)
ヘブライ人への手紙
1神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、 2この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。 3御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。 4御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちの名より優れた名を受け継がれたからです。
5いったい神は、かつて天使のだれに、
「あなたはわたしの子、
わたしは今日、あなたを産んだ」
と言われ、更にまた、
「わたしは彼の父となり、
彼はわたしの子となる」
と言われたでしょうか。 6更にまた、神はその長子をこの世界に送るとき、
「神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ」
と言われました。
アレルヤ唱 典258(主の降誕日中)
🌸 福音朗読 (ヨハネ1:1-18、または1:1-5、9-14)
ヨハネによる福音
1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 2この言は、初めに神と共にあった。 3万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 4言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 5光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。 7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。 9その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 10言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 11言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 12しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 13この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 15ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」 16わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。 17律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。 18いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
異例とも思える寒さの中でしたが、昨晩の夜半のミサに出られた方も少なくないでしょう。昨晩の典礼は、ルカが記す幼子イエスの誕生物語が中心でした。しかし、今読まれたヨハネ福音書の冒頭の言葉は、イエスの誕生とはあまり関係がないようにも思えます。しかし、よく読んでみると、それは、ルカやマタイが、イメージとして描いているクリスマスの情景とは違いますが、クリスマス=イエスの降誕、の深い意味を言葉で伝えようとしているのがわかります。それは、目に見えない「言葉」である神が、目に見える「肉=人」となって、わたしたちの間に宿られたということです。ヨハネは言います、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた、」と。これは、「受肉」とか「ご託身」とも言われる、キリスト教信仰の根本的な神秘です。
ヨハネが「宿られた」という時、その言葉には、テント(幕屋)を張ってそこに住まわれたという意味が含まれています。イスラエルの民は、かつて、エジプトを脱出して約束の地に入るまで、長い砂漠の旅の間、テントを住まいとして旅を続けていました。テントでの生活は、現代でも、突然襲って来た災害で避難を強いられた方々が一時的に住まいとされるように、当然、不便もあり、不自由があります。何よりも安定がありません。そうした、テント生活のような不安定な生活を、み言葉は敢えてお引き受けになったということです。ナザレから身重なマリアと連れ立ってベトレヘムまで旅をしたヨセフ。挙句に泊まる場所を見つけることができずに、動物たちが夜露をしのぐ小屋で幼子を出産することになったのは、そのような生活の始まりです。
幼子の誕生が、人々が眠っている間も目覚めて羊の番をする貧しい羊飼いにだけ告げられたことも、不思議な星の導きによって、救い主の誕生を知って、学者たちが東方からはるばる礼拝にやって来たことも、さらには、ヘロデ王によって、追われる身となり、エジプトに避難することになったことも、人々の現実に身を置こうとされる神の子、イエスの歩むべき道を指し示すものでした。イグナチオが霊操の第二週で、「極めて貧しいうちに生まれ、数々の苦しみをなめ、飢え渇き、暑さ寒さに堪え、人々の罵り、辱めを受けて後、ついに十字架上にご死去をとげられるため、ここに始められた旅路とこれにともなうご労苦とを見る」ようにと勧めます。人となられた神の子は、小さなもの、貧しく弱いもののうちにおられます。同時に、人々の歩みを照らし導く光として今も輝いておられます。さらには、苦しむ者、排斥される者、自分の居場所を見出すことのできない人の傍らにおられます。
第二朗読のヘブライ人への手紙の中で、「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られた」とあります。この御子とは、・・・まさに、人間の世界に生き、人間と共に歩むイエスのことです。こうした神のあらたな啓示、待ち望まれた救いの訪れを、霊に導かれて預言した預言者イザヤとともに、心の底から喜びましょう。
しかし、同時に、ヨハネ福音書が加えた言葉も忘れてはなりません。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。・・・その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。・・・言は、自分の民のところに来たが、民は受け入れなかった。」これは、決して、2000年前に、一度限りあったことではありません。今も続く現実です。人となられた神の子は、今も、聖霊を送って人々の心に語りかけておられます。語るだけでなく、その人のもとに行って、そこに共に住むことを望んでおられます。しかし、はたしてどれだけの人がそれを意識し、それに応えようとしているでしょうか。教会に集うわたしたちがまず、心しなければなりません。そして、その語りかけが、教会に集う人だけでなく、まだ教会に来たことのない人、教会の存在、神の存在すら知らない人に向けられていることも忘れてはなりません。わたしたちが、自分にできることをしようと心がけるなら、主は共にいて、働いてくださいます。この喜びの便りを、一人でも多くの人に伝えるため、恐れずに歩き出すことができますよう、主の助けを願いましょう。(S.T.)
とにかく12月25日は大変だった。
今日も、終わる。今、ストーブの石油も終わった。
明日はステファノだ。
まあ、明るい人だから、いいか。
我々の主であり神であるイエスが極限まで苦しまれたので、ステファノをはじめとする我々は、心の中に、小さな光を持って死に向かって生きて行くことができる。
復活したキリストは魚までムシャクシャ食べてくださった。
イエスを信じる者は根が明るくならざるを得ない。
戦争中ゆえ灯りを隠さないと爆撃される。ジレンマはあるが、やがて死すべき人間。
主にしたがって爆撃されるならステファノと同じく明るく死ねそうだ。
朝からイワシを食べる。頭はない。缶詰だから。