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教皇の意向:希望の巡礼者 (12月)

復活節第二主日C(4/24)

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見ないのに信じる人は、幸いである

ヨハネ20:29
集会祈願

🌸 第一朗読 (使徒言行録5:12-16)

 12使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていたが、 13ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた。 14そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。 15人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。 16また、エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らずいやしてもらった。

🌸 答唱詩編 詩編118 典87①②③

🌸 第二朗読 (黙示録1:9-11a、12-13、17-19)

ヨハネの黙示

 9わたし〔ヨハネ〕は、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。 10ある主の日のこと、わたしは“霊”に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。 11その声はこう言った。「あなたの見ていることを巻物に書いて、〔アジア州にある〕七つの教会に送れ。」

 12わたしは、語りかける声の主を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見え、 13燭台の中央には、人の子のような方がおり、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた。 

 17わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、 18また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。 19さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ。

アレルヤ唱 典

🌸 福音朗読 (ヨハネ20:19-31)

ヨハネによる福音
 19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。
 24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
 30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。 31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 復活祭から一週間、満開の桜が姿を消し、新緑とつつじの美しい時期になりました。単純に主が十字架の死から立ち上がり、復活されたことを喜ぶときから、一歩進んで、復活を信じて生きることの意味を考える時になったのではないでしょうか。復活第二主日に毎年読まれる福音は、ヨハネ20章に記された使徒トマスの体験です。アレルヤ唱で歌われた、「トマよ、あなたは私を見たので信じた。見ないで信じる人は幸い」という言葉。この言葉の意味をゆっくり考えてみましょう。

 お聞きになったとおり、トマスは、復活されたイエスが使徒たちにお現れになったとき、なぜか、皆とともにいませんでした。皆がイエスに会った喜びを伝えても、トマスは喜ぶことができません。「わたしはあの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と。このトマスの発言から、彼はいかにも、疑い深い、懐疑主義者のように思われがちですが、はたしてそうでしょうか。

 実際、ペトロをはじめ使徒たちは、イエスの復活を容易に信じようとしませんでした。イエスに出会った、イエスを見た、という仲間の言葉を聞いても、一向に信じようとしなかったことは、マルコ福音書16章に繰り返し記されています。今日の福音のはじめの部分でも、「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」と記されています。恐れのあまり身を隠していた弟子たちに、イエスが姿を現され、その手とわき腹をお見せになると、弟子たちは「主を見て喜んだ」とあります。イエスの最も近くで起居を共にした使徒たちも、十字架上で亡くなられたイエスが復活して、生きておられるとは、とうてい考えられなかったのです。彼らの目が開かれ、復活を信じることができたのは、イエスご自身が自らを現わし、生きていることを示された、いわば、弟子たちが復活のイエスを直接体験したことによるのです。そして、これは、教会の礎となる使徒たちに与えられた特別な恵みだったことは否定できません。

 トマスは再び機会が訪れたとき、復活された主に出会い、イエスの言葉を聞きます。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」とイエスに諭され、「わたしの主、わたしの神よ」と素晴らしい信仰告白をします。トマスも、他の弟子たちと同じように、直接復活の主を体験することによって、復活の主を信じる恵みをいただくのです。彼も、他の弟子と同様に、教会の礎となる使徒の一人だからです。

 翻って、わたしたちの信仰を考える時、わたしたちが使徒たちから伝えられた信仰を守っていることは確かです。復活された主を直接体験した使徒たちが語り、復活した主の力によって様々な不思議を行い、教会を発展させた使徒たちの伝えた福音を信じて生きています。使徒たちが受けた特別の恵みとは違う状況の中にありながら、復活について聞き、信じているのです。それは、ある意味で、復活の主に出会う前のトマスの経験とつながります。しかし、主に出会って、復活を信じたトマスにイエスは言われます、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と。これは、わたしたち、直接、復活の主を体験することのないものに向かって言われた言葉です。

 わたしたち、教会に生きるものは、直接主に出会うことはありません。しかし、人生の中で出会う様々な苦しみ、痛み、負わされる傷、無力とみじめさの体験、こうしたことを、主が味わわれた苦しみと重ねることができた時、わたしたちは、復活の主に一歩近づくのではないでしょうか。主を直接見ることがなくても、主の受けられた傷を自らの中に見出すとき、また、現在、世界中で人々が負っている様々な傷の中に見ることが出来たとき、イエスを復活させられた神の力が自分の内に働くこと、復活されたイエスが主が今も、わたしたちの内に生きて働いておられることを信じる信仰に導かれるのではないでしょうか。今も、苦しみの中にある多くの人々に、復活の主が与える希望の光が注がれますように。そして、わたしたちも、復活の主への信仰を、日々の現実の中で、一層確信をもって生きることが出来ますよう祈りましょう。(S.T.)

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

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