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教皇の意向:子を失った親 (11月)

年間第十五木曜日(7/20)

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疲れた者は、わたしのもとに来なさい

マタイ11:28
集会祈願

🌸 第一朗読 (出エジプト3.13-20)

 13〔その日、柴の間から語りかける神の声を聞いた〕モーセは神に尋ねた。
 「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」
 14神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」 15神は、更に続けてモーセに命じられた。
 「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。
 これこそ、とこしえにわたしの名
 これこそ、世々にわたしの呼び名。
 16さあ、行って、イスラエルの長老たちを集め、言うがよい。『あなたたちの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主がわたしに現れて、こう言われた。わたしはあなたたちを顧み、あなたたちがエジプトで受けてきた仕打ちをつぶさに見た。 17あなたたちを苦しみのエジプトから、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む乳と蜜の流れる土地へ導き上ろうと決心した』と。 18彼らはあなたの言葉に従うであろう。あなたはイスラエルの長老たちを伴い、エジプト王のもとに行って彼に言いなさい。『ヘブライ人の神、主がわたしたちに出現されました。どうか、今、三日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。』 19しかしわたしは、強い手を用いなければ、エジプト王が行かせないことを知っている。 20わたしは自ら手を下しあらゆる驚くべき業をエジプトの中で行い、これを打つ。その後初めて、王はあなたたちを去らせるであろう。

🌸 答唱詩編 詩編 典94 ①②

アレルヤ唱 典276(諸聖人)

🌸 福音朗読 (マタイ11.28-30)

マタイによる福音

 28〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 30わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
 長年人生を歩んできたもので、疲れを知らない、という人はいるだろうか。皆、疲れ、気力を失う時がある。どこかで休む必要がある。しかし、実際は、休まない人、休めない人がいる。休んだら、自分の価値がなくなるという不安からだろうか。自転車のように、止まったら倒れると思っているからだろうか。
 休みをどこで、どのように取るか。多くの人はどこか遠くに出かけて、疲れ切って帰って来る。多くの時間とお金をかけて休みを取ろうとして、結局、休みにならず、かえって、もっと大きな休みを必要とする状況に陥る。
 かつて、安息日についての話で、講師のシスターはこう言った「安息日には、自分の中の子どもを解放してやりなさい、」と。普段しないこと、できないこと、思い切ってやってみること。散歩でもよい、音楽を聞くでもよい、映画をみるでもよい。庭仕事をするでもよい。病人訪問でもよい。
 イエスは言われる、「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と。簡単なこと。しかし、つい忘れてしまう。どこか他所に安らぎを得ようとする。イエスが与える「軛」とは何か。主と共にいる時を大切にする。さらには、人と共にいる、ありのままの相手を愛する、受け入れるという軛ではないか。義務や仕事と考えず、主の招きと考えたらどうか。「負いやすく、軽い」ものだから。(S.T.)

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

1 comments

  1.  以前、自分の子どもほどの年下の上司に「どうして日本人は成長しないのでしょうか」と尋ねられたことがあった。
    今だったら、分かち合いにある言葉で「自分の中の子どもを解放しないから」と答えるだろう。

    働くとはカネ儲けすることと思い込んでいる人々が圧倒的に多い。結局、地球と自然と人間を破壊しているのに。

    子どもは単純に真実に生きている。
    母の胎に宿る前から子どもを無条件に受け入れることが、まともな国の条件だと思う(マタイによる福音書25章40節参照)。

    私にとって完全な人(この言葉はエセイサバレナ師からはじめて聞いた。師にとってはアルペ神父様だと言っていた)であったメンディサバル師に、育った家族や村のことを聞いて感じたのは、「ああ、この人は、生まれる前から無条件の愛の中で育てられていたんだなあ」ということ。
    メンディサバル師の父親は遺言関係の弁護士で少しピアノをやっていた。母親も音楽をやっていた。8人兄弟姉妹の男3人はみなイエズス会士になり女は1人が結婚し4人がシスターに。2人の姉妹はピアノをやっていて14歳で音楽大学を卒業したがシスターになった。1万人ほどの村だったが12人もイエズス会に入った。

    この世の価値観を超えないと真の幸福にはなれない。

    持続可能ってちょっとちっぽけ。

    我々は永遠の命を受けるため洗礼を受けた。

    「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」
    ヨハネによる福音書6章27節

    「心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」
    マタイによる福音書18章3節

    「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」
    マルコによる福音書1章15節

    「実に、神の国はあなたがたの間(内)にあるのだ」
    ルカによる福音書17章21節

    どんなに小さくても、だからこそ、神の国のために働きたい。

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