福者ペトロ岐部司祭と一八七殉教者
集会祈願
🌸 第一朗読 (創世記18.1-15)
1〔その日、〕主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。 2目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、 3言った。
「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。 4水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。 5何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。」
その人たちは言った。
「では、お言葉どおりにしましょう。」
6アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った。
「早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい。」
7アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。 8アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした。
9彼らはアブラハムに尋ねた。
「あなたの妻のサラはどこにいますか。」
「はい、天幕の中におります」とアブラハムが答えると、 10彼らの一人が言った。
「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。 11アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。 12サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。
13主はアブラハムに言われた。
「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。 14主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」 15サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「わたしは笑いませんでした。」主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」
🌸 答唱詩編 詩編105 典177 ①⑥
アレルヤ唱 典268 ⑨
🌸 福音朗読 (マタイ8.5-17)
マタイによる福音
5〔そのとき、〕イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、 6「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。 7そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。 8すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。 9わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」 10イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。 11言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。 12だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」 13そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。
14イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。 15イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。 16夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。 17それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
「彼はわたしたちの患いを負い、
わたしたちの病を担った。」
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
山を下り、人々の世界に身を置かれたイエスがなさった二つ目のわざは、異邦人の僕の癒し。「わたしは、イスラエルの失われた羊のところにしか遣わされていない」(マタイ15.24)と言われたイエスが、ユダヤ人があれほど厳しく交わりを禁じ、汚れを身に受けないようにした異邦人に癒しの業を行うとは。まず、神から選ばれたユダヤ人に救いをもたらす、との原理をイエスは最初から破られたのだろうか。福音が異邦人の世界に広がったのは、イエスの復活後のことであり、マタイもそれを承知で、あえてイエスの活動の冒頭にこの出来事を記すのは、イエスが単に原理原則で動くのではなく、目の前に現れた現実に誠実に向き合い、対応する、その現実主義の表れであり、それこそが、神の限りない慈しみの実相であろう。
百人隊長と言えば、たとえ小隊の長であっても、部隊に属する者を思うままに動かすことのできる権限の持ち主である。その彼が、自分の片腕ともいうべき人間の病の前に、どうすることもできない無力を感じている。頼みの綱とも言うべき、自分たちの支配下にあるユダヤ人の男、イエスに恥を忍んで近づく。イエスは、それをイスラエルの中にも容易に見ることのできない「信仰」と称揚するが、誇り高いローマ人にとっては、できることなら避けたい、一種の屈辱、最後の賭けだったのかもしれない。
イエスは言われる、「わたしが行って、いやしてあげよう」。神の慈しみは、そのようなものであることを心に刻もう。(S.T.)