集会祈願
🌸 第一朗読 (エレミヤ18:1-6)
エレミヤの預言
主からエレミヤに臨んだ言葉。 2「立って、陶工の家に下って行け。そこでわたしの言葉をあなたに聞かせよう。」 3わたしは陶工の家に下って行った。彼はろくろを使って仕事をしていた。 4陶工は粘土で一つの器を作っても、気に入らなければ自分の手で壊し、それを作り直すのであった。
5そのとき主の言葉がわたしに臨んだ。 6「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、わたしもお前たちに対してなしえないと言うのか、と主は言われる。見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある。
🌸 答唱詩編 詩編146 典19①②
アレルヤ唱 典270(51)
🌸 福音朗読 (マタイ13:47-53)
マタイによる福音
〔その時、イエスは人々に言われた。〕「また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。 48網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。 49世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、 50燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
51「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。 52そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」
53イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去〔った。〕
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
天の国についての最後のたとえは漁網のたとえ。湖に投げ降ろす網だから、弟子たちが使ったいわゆる「投網」とは違う「曳網」(地引網のような)だろうか。引き上げられた網の中から、漁師は、善いものと悪いものを上手に選別する。これは、世の終わりの裁きのたとえと言われる。これだけ読むと、いかにも、人々を脅し、恐怖心を起こさせる印象をもってしまう。マタイが繰り返し使う終末についての言い回しがここでも現れる。
たしかに人間は、神の前で自分の行ったこと、生きてきたことについて神の前で責任を問われる。あたかも、取れた魚がより分けられるように、選別される。しかし、それは、人間の意志と無関係になされる選別ではなく、むしろ、人間が自分に与えられた自由によって、選び・決定したことによるのである。神が自由を無視して、人間に機械的に行うことではない。
マタイがこうした、一見厳しい言葉に満ちたたとえを記すのは、神を知らない、福音を聞いたことのない人々に対してではなく、むしろ、神のことばを聞いた人々、弟子となった人々、教会の一員となった人々に対してである。神は、人間が生きる限り、回心の機会を与え、ゆるしの恵みを注ぐ、慈しみに満ちた方である。したがって、イエスが用いられた、こうしたたとえも、単なる、恐るべき裁きの予告としてではなく、むしろ、神に向き直り、神の招きにふさわしい者となるようにとの戒めとして受け止めるべきではないだろうか。(S.T.)