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教皇の意向:子を失った親 (11月)

年間第十一火曜日(6/20)

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敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい

マタイ5:44
集会祈願

🌸 第一朗読 (二コリント8.1-9)

 1兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。 2彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。 3わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、 4聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。 5また、わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げたので、 6わたしたちはテトスに、この慈善の業をあなたがたの間で始めたからには、やり遂げるようにと勧めました。 7あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。
 8わたしは命令としてこう言っているのではありません。他の人々の熱心に照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです。 9あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。

🌸 答唱詩編 詩編146 典19 ①③

アレルヤ唱 典268 ⑮

🌸 福音朗読 (マタイ5.43-48)

マタイによる福音
 43〔その時、イエスは弟子たちに言われた。〕「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。 44しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 45あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。 46自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。 47自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。 48だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 「自分を愛するように隣人を愛する」こと、これは旧約聖書(レビ記19章)にはっきり謳われており、「神を愛すること」とともに、多くの箇条をもつ律法の要であることは、イエス時代の人々に知られていたようだ。しかし、イエスは、そこに一つの抜け穴があることを見抜いておられた。

 だから、イエスは言われる、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と。「隣人」と言えば、当然のように、自分に近しい人、家族、友人、知人、日常的にかかわる人。顔をよく知った人、と言えば、分かりやすいかもしれない。しかし、イエスは、その枠組みを超える隣人への愛を要求する。常識的な隣人の理解を超えて、自分に敵対し、自分に敵意を示す「敵」を愛すること、さらには、自分の命さえ危険に陥れる「迫害者」への愛を求めるとはどういうことか。

 同胞への愛、同じ民族、同じ国家の一員に対する愛、愛国心自体、悪いこととは言えない。しかし、それによって、どれほど多くの争いが生じ、血が流されたことか。

 イエスは、そうした狭い「愛」の理解を超えて、父なる神の愛に、人々を導く。すべての人に太陽を昇らせ、雨を降らせる父なる神の子となるように。たとえどのような状況に置かれても、対峙する相手は、同じ神によって造られ、愛されている「神の子」である。そのような理解を身に着けた人々によって、教会は生かされ、人間の歴史は進んできた。どれほど、血なまぐさい戦いが繰り返されても、その愛を信じ、生きようとする人たちによって、歴史は今も作られてゆく。(S.T.)

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

2 comments

  1. 毎日 ありがとうございます。
    敵(?)を愛する、といのはいつもいつも私の前に置かれた課題です。
    数年前、私に理不尽なことをする人に対して、「心は伴わなくてもとにかく その方々の心が平らかであるように祈りなさい。」とアドバイスしてくださった方がありました。言われるままにしていたら、ふとガラテヤ5章が浮かびました。《み霊の実》
    私ができなくてもさせてくださる!と実感しました。大きなお恵みでした。
    今日のみ言葉、分かち合いのメッセージが、心に響きます。
    感謝を込めて。

    返信
    • 市川和子さま、
      いつもありがとうございます。
      さて、この福音の個所を読んでみますと、「敵」という者はただ自分を迫害する者だけではなく、もっと広い意味で、自分を愛してくれる人や自分の兄弟姉妹ではない人々が含められる者だと思います。

      敵を愛するということは、主に祝福されるように祈って(マタ5:44)、それから彼らに豊かに与えることによって私たち自身の祈りに答えることを意味します(2コリント8:4-5参照。ルカ15:22ffも参照)。

      敵を愛するということは、彼らがそれを受け取ることができる方法で彼らに愛情を示すことを意味します(ルカ15:20)。

      敵を愛するということは、例外的な方法で敵を敬うことを意味します(ルカ15:22-24)。

      敵を愛することは明らかに不可能です。それは純粋な恵みです。それは、私たちが天の父の子供であり(マタ5:45)、天の父が完全であられるように完全な者になる(マタ5:48)ことを示しています。

      敵を愛することは、衝撃的で、預言的で、福音宣教的です。私たちが本当に敵を愛するとき、十字架での主イエスの死は私たちの光となります。

      「神の恵みによって、敵を愛しなさい!」と。

      返信

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