集会祈願
🌸 第一朗読 (二コリント12.1-10)
1〔皆さん、〕わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。 2わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。 3わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。 4彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。 5このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。 6仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、 7また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。 8この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。 9すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 10それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
🌸 答唱詩編 詩編34 典128 ③④
アレルヤ唱 典270 25C
🌸 福音朗読 (マタイ6.24-34)
マタイによる福音
24〔その時、イエスは弟子たちに言われた。〕「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
25「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。 26空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。 27あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。 28なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。 29しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 30今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。 31だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。 32それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。 33何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 34だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。」今日の福音書を読むと、聖イグナチオ・ロヨラの霊操における「二つの旗」(霊操136~147)についての黙想を思い出しました。第一部はルシファーの旗、つまり、死の王サタンの下で努めることです。サタンは人々を富と名誉と傲慢という三段階から他のあらゆる悪徳に引き込むのです。第二部はキリストの旗、つまり、生きる王キリストの下で努めることです。私たちの主キリストは清貧と辱め・蔑みと謙遜という三段階から他のすべての善徳に人々を導き入れるのです。考えてみれば、神の国に入るのは難しいです。世間の方から見ると、神の国は魅力がないような気がします。
昨日の福音書と今日の福音書は繋がりが有ります。昨日の福音書では、「地上に富を積んではならない。・・・富は、天に積みなさい」(6章19-20節)という主イエスの教えです。今日の個所では、地上に富を積むことと天に富を積むことが両立しないように、神に仕えることと、富に仕えることは両立しないのです。ここでは「神と富とに仕えてはならない」ではなく、「仕えることはできない」と言われています。それは禁止命令ではなく、事実としてそうなのだということです。
皆さん、今日の箇所は説明する必要がない気がします。素直に主イエスの言葉を受け取ればよいのです。しかし、このように言われても、私たちがなかなか「思い悩み」から解放されないのも事実ではないでしょうか。この「思い悩み」は主イエスの時代よりも、現代のほうが大きな問題かもしれません。現代は人間の力が非常に大きくなった時代であり、現代人はすべてを自分の力で行うことができるかのように錯覚しがちです。そして成功するのは自分の努力の結果で、うまくいかないのは自分の怠慢の結果(「自己責任」!)だというような考えが強くあります。そんな中では、神がすべてを与え、養っていてくださるとはなかなか感じにくいでしょう。
私たちは、自分の力で思い悩みから解放されるのではありません。私たちを思い悩みから解放してくださるのは神なのです。きょうを神に生かされた者として精一杯生きるという信仰を持って、ミサを続けていきましょう。
磯辺文子さま、
いつも「祈る花」を見てくださいましてありがとうございます。また、コメントしていただいて、心から感謝いたします。
磯辺文子さまは、霊操をよく読んで、よく黙想なさったような気がします。なので、次のような霊操の文書を読んでいただければ助けられていると思います。
イグナチオの黙想の仕方(45-54)。
その際に、第2の準備(48)が大切です。せつに望んでいることを願うこと、第1週なら自分を知り、神を知る恵みを願うことを、黙想の間にいつも忘れないこと。そして、最後の対話を大切にすること。要点は、聖書から取る場合には、前もって読んで、3つくらいの節を選んでおくこと。
あと、霊の識別で、慰めと荒みをしっかり見極めること(316と317)、そして荒みの原因(322)。
こられは聖イグナチオ・ロヨラによる第一週の祈りの仕方です。「神さまの愛、憐れみ、優しさ、慈しみを感じたい」ならば、霊操のガイダンスに従って、最後まで、特に「愛を得るために」を黙想して、何か神に望まれていたことが得られるでしょう。
こんばんは
今日のみ言葉の分かち合いを呼んで「素直に主イエスの言葉を受け取ればよいのです。」の言葉が心に響きました。私も時々、磯辺文子様と同じように、聖書を読む時、頭で理解しようと考えました。しかし、ある時、仕事が終リ、あまりにも疲れてしまったので、ただ神様の前で座るだけでした。何も考えなくても、ただ神様と一緒にいるだけでも幸せなひと時だど感じました。
心を開き、み言葉を呼んで素直に受け入れることができるように神の恵みを祈りつつ、毎日を励んでいきたいと思っています。
思い悩みから解放してくださるのは神なのです、の言葉が心に残りました。
私は、聖書を読む時、黙想、霊操しようとするとき、どうしても自分の力や自分の頭で理解しようと頑張ってしまい、実のところ神さまの愛や優しさがわからないでいます。どのように一人で黙想、霊操したらよいのでしょうか。お祈りの仕方がよくわからないのです。神さまの愛、憐れみ、優しさ、慈しみを感じたいのです。