集会祈願
🌸 第一朗読 (創世記11:1-9)
創世記
〔そのころ、〕1世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。 2東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
3彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。 4彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
5主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、 6言われた。
「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。 7我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
8主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。 9こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。
🌸 答唱詩編 詩編33 典46 ③④
アレルヤ唱 典269 ㊼
🌸 福音朗読 (マルコ8:34~9:1)
マルコによる福音
34〔そのとき、イエスは〕群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 35自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 36人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。 37自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 38神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
弟子たちと共に群衆に向って、イエスは言われる、「わたしの後に従いたいものは、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。十字架というと、今でこそ、かっこいいシンボルと思われているが、十字架はローマ時代、極悪人の処刑の道具だった。それが2000年の間に、こうも変わったのは、十字架につけられたイエスが復活して、今も生きているという信仰が広がったから。陰惨なイメージが、希望のしるしに変わった。
しかし、十字架に象徴される苦しみは、現代もなくならない。富の不均衡から来る貧困、格差、戦争やテロ、自然災害、病気、犯罪による犠牲等。それらは人間の努力によって減少させなければならない。しかし、完全に除去することはできない。それだからこそ、十字架の意味が、あらためて問われているのかもしれない。十字架は、自分から求めるものではなく、向こうからやってくるもの、人々が求めずして、すでに担わされている様々な苦しみでもある。イエスは、この世界から十字架を取り除こうとされたのではない。
むしろ、それを自ら、人々と共に担うことによって、新たな価値を与えられたのではないか。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(8.35)。ヨハネも記すこの言葉、逆説そのものと思える言葉、まさに、そこに十字架と復活の神秘が隠されており、それを悟るための恵みを、そして、受け入れる信仰を祈ろう(S.T.)
まず、マルコによる福音。
本日は9章1節までであり、本サイトは結語「また、イエスは言われた。『はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。』」が欠けている。
(そして9章2節以下でイエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの前で変容しエリヤやモーセと語り合う。)
さて、第一朗読、そして答唱詩編である詩編33は、いずれも人間の企てが虚しいもの、神によって砕かれるものであることを示している。
そして、今日の福音で、イエスは弟子のみでなく群衆をも呼び寄せて言われた。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と。
「わたしの後に従いたい者」
洗礼を受けて1ヶ月後の第一回目の告解で、神父様は「洗礼を受けてよかったですか。よかったと思ってますか。」と尋ねられた。
その時は、変なこときくなあ~と思いながら、はい!とはっきり答えた。
しかし、東日本大震災直前から直後、排斥迫害されると、洗礼なんて受けなければよかった、などと思った。
はっ! と気づく。
師の最初の質問。
「このわたしが飲む盃を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」(マルコによる福音書10章38節)とイエスは問う。
そして、本日の分かち合い「十字架」の意味。
最初の定例告解で師は、
「あなたが選んだのではない。わたしが選んだのだ。」
と言われた。