集会祈願
🌸 第一朗読 (イザヤ58:7-10)
イザヤの預言
7更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え
さまよう貧しい人を家に招き入れ
裸の人に会えば衣を着せかけ
同胞に助けを惜しまないこと。
8そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で
あなたの傷は速やかにいやされる。
あなたの正義があなたを先導し
主の栄光があなたのしんがりを守る。
9あなたが呼べば主は答え
あなたが叫べば
「わたしはここにいる」と言われる。
軛を負わすこと、指をさすこと
呪いの言葉をはくことを
あなたの中から取り去るなら
10飢えている人に心を配り
苦しめられている人の願いを満たすなら
あなたの光は、闇の中に輝き出で
あなたを包む闇は、真昼のようになる。
🌸 答唱詩編 詩編112 典99 ③④
🌸 第二朗読 (一コリント2:1-5)
使徒パウロのコリントの教会への手紙
1兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。 2なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。 3そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。 4わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。 5それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。
アレルヤ唱 典268 5A
🌸 福音朗読 (マタイ5:13-16)
マタイによる福音
13〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 14あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 15また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 16そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
年があらたまって、もう2月、典礼は年間の季節に入り、福音はしばらくの間、マタイの山上の説教から読まれます。先週は説教の冒頭の言葉「幸い」についてでしたが、今日の福音はその続きの有名な言葉です。
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味がつけられよう。」塩は、毎日の食事に欠かせないもので、現代は簡単に店で買えますが、昔は実に貴重なもので、塩を手に入れるために大変な苦労があったようです。瀬戸内海沿岸では塩田から塩を豊富に得ていましたが、海から遠い内陸の人(甲斐の武田氏)は大変だったに違いありません。もっぱら岩塩に依存するヨーロッパでは、ローマ時代、兵士に支払う給与は塩(ラテン語でsal)で、そこからサラリーという言葉が生まれたと言われています。
「あなたがたは地の塩である」。そんなことを忘れて、つい塩味が薄いと食塩をかけ、味が濃すぎると文句を言う生活をしがちですが、はたしてわたしたちは、どれだけ「地の塩」になっているでしょうか。そもそも、主イエスが言われる「塩味」とは何を意味するのでしょうか。
「あなたがたは世の光である」とも言われます。神ご自身が光であり、主イエスは自らを「世の光」と言われますが、その光とは何を指すのでしょうか。小さなランプでさえ欠かすことのできない時代、光はまさに貴重な光源でしたが、人工的な光の中で生きるわたしたちは、少し照度が足りないと「暗い」と文句を言い、太陽の光のように強すぎる光を浴びると、何とかそれを遮ることに苦心します。果たして、イエスが言われる「世の光」とは何を意味するのでしょうか。
「地の塩」にせよ、「世の光」にせよ、ヒントは今日のみ言葉の中にしっかり記されています。コリントの教会で宣教に苦労したパウロは言います、「わたしは、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしは、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」と。パウロが福音を伝えるために頼りにしたのは、自分の知恵や、立派な言葉ではなく、神から来る力、神の霊による力だったのです。より身近な言葉でいえば、イエスとの親しさ、イエス自身の思い、心から来る、神のあふれるいのち、そして、愛だったのではないでしょうか。
今日の第一朗読の言葉、イザヤの預言も、大事なヒントを含んでいます。「飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと」、それが、主が選ばれる断食だと預言者は言います。そのようなことを進んで行うとき、「あなたの光は曙のように射し出で」、「あなたの光は闇の中に輝き出る」、と。イザヤがこう語った数百年後、イエスは繰り返すように、祝福されたものに言われます、「わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」(マタイ25.35∼36)と。
先週の2月3日、日本の教会は6年前に福者に上げられた高山右近の記念を行いました。キリシタン時代、多くの人に、言葉だけでなく、行いを通して、大きな影響を与えた右近は、まさに、このことを実践した方です。頭の固い、当時の有力大名たちも、右近のそうした行いを見て、キリスト教に帰依する意思を抱いたのです。残念ながら、その多くは、途中で信仰から離れて行きました。しかし、右近は、自分の城、領地、領民、財産の一切を投げ打った末、禁教令に従ってフィリピンに流され、そこで命を捧げたのです。彼は、まさに、「地の塩」、「世の光」を生き抜いた方でした。
パウロのように、キリストを知ること、それも単にキリストについて知ることだけでなく、キリストの心、キリストの思い、キリストの愛を学び、それに倣って生きること、また、預言者が掲げ、主イエスも、祝福されたものについての言葉に記された「小さな兄弟」への思いやりに満ちた行動を大事にしながら、「地の塩」、「世の光」として、人となられた主の愛を世に証しして生きることができますよう祈りましょう。(S.T.)
フランシスコ教皇が同性愛を禁止する法律を不正義とはっきり表明。
すべての人の存在を無条件に受け入れる神に感謝。
地獄云々と書いたが恐るに足らず。
既に、1577年、イエズスの聖テレジアは『霊魂の城』第4章で、地獄じゅうが一つに団結することについて書いている。
そう言えばこの本も女にすすめられたものだ。
以前どこかで欧米列強には歯応えのある女がいるとの加藤周一かその友の説に賛成したが、不敬だった。
コロナ禍で、バブル期以前の我が心の内なる電話魔が復活。
歯応えある電女軍団に敗北の人生突進中。大本営発表?
変なハナシ!
また変なことを書いてしまった。
今日の福音は地の塩だ。
地の砂糖ではない。
三浦神父さまの葬儀ミサを今見ていて俺も甘い物が喰いたくなった。
土の匂いがする神父でありながら、なにげに霊的会話をするなんて地上で会っておきたかった!
霊的事柄はやたら頭の血糖を使うということは、黙想会での師の観察やイエズス会士異聞伝聞列伝で見当がついていたが、朝メシからケーキに砂糖をかける司祭は空前絶後かも?
否、待て!
女子イエズス会士や女子パウロ会士ならいくらでもいそうだ!
灯台下暗し!
今、三浦師朝からケーキに砂糖事件に感動し速攻電話した修道院の受付女史は朝からケーキに砂糖やってそう。
受付突破し本丸切り込めたのは、ほんの数回。警視庁といい勝負。
女はこわい!
男はいくらでも居候!
まんじゅうこわい。
神に感謝!
朝からケーキに砂糖で同僚のH師が大丈夫かと心配した通り三浦功神父さまはご病気されたが医者にも薬にも世話にならずに2年かけてご自身で自然に治癒されたところがイエス・キリストの代理人たる司祭だと思うし、今や絶滅危惧種となった真の日本人だと思う。
政治というものは民主政であっても、与党も野党も、権力の奪取を前提とする以上、そこに救いはない(横道だが、昔、実家近所の果樹園を左折した時、米国女性が私に英国人E.M.フォースターをすすめたことを思い出した)。
世俗法による救済も所詮カネであり、刑事民事弾圧から解放されても、晩期資本主義か、はたまた収容所群島・収容所列島・草の根ファシズムネットワークに投げ込まれる。
塀の上、どちらに転んでも、また地獄、世界自体が施設かな。
消費社会のよいカモか。
世の中をよくしようというより、世の中により抑圧された人間を少しでも助けること、否、自ら抑圧される者となること。
as an outcast
with an outcast
for an outcast
自分自身が抑圧迫害排除されてようやく、キリスト以外に救いはないと身をもって知った。
思えば、我々の教皇フランシスコが来日した2019年に、旧友親族地域知人団体組織からの迫害が決定的に始まった。
まさに真福八端の結語は、
義のために迫害される人々は幸い、である。
(直近教皇3代の名を思うだけでも警世を知ることができると思う)
十字架につけられたキリスト以外、何も知るまい。神の霊の力以外に救いはない。
第一朗読イザヤ書や分かち合いで引用されたマタイ25章の抑圧された者、排除された者になることで初めて、貧しい人は幸い、という福音を知った。
金、権力、肩書、快楽に生きる世の権力者や大衆にとって、心の自由をもつキリスト者ほど恐ろしい者はないのだろう(結城了悟『キリシタンになった大名』聖母の騎士文庫143ページ)。
キリスト以外に誰も真の幸せの道を示すことはできない(ペトロ・ネメシェギ『愛といのち』聖母の騎士文庫42ページ)。
我々の聴罪司祭は
「ありふれた信徒になるな。聖性をねらえ。」と言われた(新受洗者と代父母のためのフォローアップ講座2007年12月8日)。
聖性への道を進むのは外面的にも内面的にも十字架の道を歩むこと。
心の夜の暗闇が深まる時、信仰と愛だけに導かれて十字架に向かって行こう。(ルイス・フロイス『日本二十六聖人殉教記』聖母の騎士文庫所収293ページ、結城了悟「聖ペトロ・バプチスタの書簡」)
地獄云々と書いたが恐るに足らず。
既に、1577年、イエズスの聖テレジアは『霊魂の城』第4章で、地獄じゅうが一つに団結することについて書いている。
そう言えばこの本も女にすすめられたものだ。
以前どこかで欧米列強には歯応えのある女がいるとの加藤周一かその友の説に賛成したが、不敬だった。
コロナ禍で、バブル期以前の我が心の内なる電話魔が復活。
歯応えある電女軍団に敗北の人生突進中。大本営発表?
変なハナシ!