集会祈願
🌸 第一朗読 (二マカバイ7:1-2、9-14)
1〔その日、〕七人の兄弟が母親と共に捕らえられ、鞭や皮ひもで暴行を受け、律法で禁じられている豚肉を口にするよう、王に強制された。 2彼らの一人が皆に代わって言った。「いったいあなたは、我々から何を聞き出し、何を知ろうというのか。我々は父祖伝来の律法に背くくらいなら、いつでも死ぬ用意はできているのだ。」
9〔二番目の者も〕息を引き取る間際に、彼は言った。「邪悪な者よ、あなたはこの世から我々の命を消し去ろうとしているが、世界の王は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へとよみがえらせてくださるのだ。」
10彼に続いて三番目の者もなぶりものにされた。彼は命ぜられると即座に舌を差し出し、勇敢に両手を差し伸べ、 11毅然として言った。「わたしは天からこの舌や手を授かったが、主の律法のためなら、惜しいとは思わない。わたしは、主からそれらを再びいただけるのだと確信している。」 12そこで、王自身も、供の者たちも、苦痛をいささかも意に介さないこの若者の精神に驚嘆した。
13やがて彼も息を引き取ると、彼らは四番目の者も同様に苦しめ、拷問にかけた。 14死ぬ間際に彼は言った。「たとえ人の手で、死に渡されようとも、神が再び立ち上がらせてくださるという希望をこそ選ぶべきである。だがあなたは、よみがえって再び命を得ることはない。」
🌸 答唱詩編 詩編17 典113 ①②④
🌸 第二朗読 (二テサロニケ2:16~3:5)
16わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、 17どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように。
1終わりに、兄弟たち、わたしたちのために祈ってください。主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように、 2また、わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください。すべての人に、信仰があるわけではないのです。 3しかし、主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。 4そして、わたしたちが命令することを、あなたがたは現に実行しており、また、これからもきっと実行してくれることと、主によって確信しています。 5どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。
アレルヤ唱 典274 32C
🌸 福音朗読 (ルカ20:27-38、または20:27、34-38)
ルカによる福音
27〔そのとき、〕復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。 28「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。 29ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。 30次男、 31三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。 32最後にその女も死にました。 33すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」 34イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、 35次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。 36この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。 37死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。 38神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
今日の典礼の中心的なテーマは復活です。復活は、わたしたちの信仰の核心ですが、同時にわかりにくい、信じがたい、しかも、信じることしかない神秘です。
イエスの弟子、特に、イエスに最も近い位置にいた使徒たちは、復活したイエスに出会うという特別な恵みを受けました。しかし、その弟子たちも、信じることに鈍い、人間的な弱さをもった人間でした。
わたしたちも、信仰宣言の中で、復活を信じる、と言いますが、直接復活を経験したわけではありません。復活のイエスに出会って、イエスを信じた弟子たちの言葉を信じて、復活を信じるようになったのです。復活を信じるのは、人間の努力や特別な能力の結果ではなく、むしろ、神が聖霊を注ぎ、復活を信じるようにと、人を動かしてくださったからです。人間の力ではなく、神の力が働いて、復活のいのちに生きるものとしてくださるのです。
旧約聖書の中には、初めから復活の思想があったわけではありません。旧約聖書の最初の5巻、モーセ五書だけを信仰の基とするサドカイ派の人々は、そこに復活の思想がないため、復活を認めず、今日の話のような議論をイエスにぶつけてくるのです。律法(申命記25章)には、「結婚した兄弟が、子がないまま死んだ場合、その弟が残された妻を娶り、跡継ぎを残す」という規定、いわゆる「レビラート婚」と言われる決まりがあります。7人の兄弟がいて、死んだ兄に代わって次々と兄嫁と結婚して子どもを残さずに死に、その女も死んだとすれば、復活のとき、その女は誰の妻になるかという疑問を投げかけます。イエスは、そうした問いを受けて、復活の世界について教えます。そこでは、「人はもはや娶ることも嫁ぐこともない。もはや死ぬことがない」と。
復活の思想は、イザヤやエゼキエルのような預言者たちの言葉に少しずつ現れ、バビロン捕囚という厳しい体験から解放された時代に、さらには、今日第一朗読で読まれたマカバイ記が記す厳しい弾圧の経験の中で、深められていったものです。「世界の王は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へとよみがえらせてくださるのです。」「たとえ人の手で、死に渡されようとも、神が再び立ち上がらせてくださるという希望」について、死に赴くマカバイ兄弟は語ります。しかし、それは、まだ、復活への希望を表明するだけです。復活を現実のものとし、人々に確信させてくださったのは、自らも死に渡され、父なる神によって、復活のいのちに与るものとされた主イエス・キリストにほかなりません。
しかし、最初にイエスの復活を信じた弟子たちも、何のこだわりもなく、復活を信じたわけではありません。イエスの十字架の死に至る道行きを、遠くからしか眺めることができなかった弟子たちは、復活の主に出会ったという仲間の言葉を信じることができませんでした。主ご自身が、その生きる姿を示されたとき、はじめて、イエスが生きておられ、復活されたという、確信を与えられたのです。自分たちの弱さと無力さの極みの中で、主を信じる恵みが与えられたのです。そして、人が変わったかのように、新たな力を得、あの十字架上につけられたキリストこそが救い主であると、公然と語る福音宣教者となったのです。
復活を信じるということは、日々の生活の中で、様々な形で襲ってくる死の経験、自分の思い、計画、望みが、砕かれ、自分の弱さ、みじめさ、無力さを感じるとき、にも拘わらず、主がともに居てくださる、むしろ、そうだからこそ、力を与えてくださるという体験を重ねることによって、はじめて自分のものになるものです。
日曜日ごとにあずかるミサは、主の死と復活を記念する感謝の祭儀です。同じ信仰告白をする仲間とともに、あの十字架上で亡くなった主イエスが、父なる神の力によって復活され、今も、教会の中で、御言葉を通し、また、ご聖体を通して、わたしたちを訪れ、力を与えてくださることを、あらためて、感謝の内に思い起こし、復活の主への信仰からくる真の希望と喜びをもって歩んでまいりましょう。(S.T.)
神から頂いた恵みを十分に時間をかけて受容していく恵みを祈り求めたい。
神の恵みに満たされるとき、すぐにでもこの世が変わるかのように思ってしまう傾きが私にはある。
第一朗読は勇気を与えてくれるし、羨ましい家族だが、第二朗読の、すべての人に信仰があるわけではない、というパウロの言葉や、今日の福音を受けての分かち合いの言葉は、人々が復活を信じることの難しさを再認識させてくれた。
そもそも真実で正しいこと、イエスの示してくれた愛に生きることは、必ず受難を伴うから、普通の人々に簡単に受け入れられるものではない。
福音宣教には相当のねばりと忍耐が必要だ。神の恵みなくして福音宣教はできない。
他方、今の私の情況は母は拉致されたまま行方不明で、生まれてから一番生活は苦しく不可解なことも多く、この状態に関与している市役所や弁護士会や地域住民や警察に助けを求める愚を、「福音宣教」のつもりで行ってしまっているのではないかとも思う。
ただ、パウロもキリストも迫害を受け、今の言葉で言えば被害者でありながら、否、だからこそ、福音宣教している。
受難は福音宣教に必須だ。
安全地帯にいては福音宣教はできない。
マタイ5章の真福八端による幸いを伝えるのが福音宣教だから。
キレイに包装されたプレゼントを渡すのとは、わけがちがう気がする。(勿論、私自身、幼き頃、日曜学校で頂いたキレイに包装されたプレゼントに喜び、何かを感じていたが)
とにかく、パウロやキリストのように生きることは、簡単に世の人々に受け入れられるものではない、ということを肝に銘じたい。
すべての人は神によって生きてる
祈りの花、冒頭大文字しか見てないが
これだけで回心。
西郷隆盛が、どんな人とも天に向かって話していると思え、と。
昨日は街でつい声高に正義を訴えてしまい、他方で、鋭いユニセフ批判した人が、早朝労働現場でともに働く外国人を地味に助けていることを知った。彼女の口から緒方貞子の名が出た時は背筋を思わずまっすぐにした。実は彼女の母は昔教会に来ていたが、随分前に来なくなったと、私が彼女の食堂の常連になって数年後に信徒から聞いた。
日本も教会もこの私も相当生ぬるくなっている。
昨夜2軒目に行ったバーのマスターのカナダ人は、家族でただ一人、カトリックの洗礼を断固受けなかった男だ。名ばかり外国人で、不正な警察官ともケンカする真の日本人だ。カナダのカトリックは日本の国家神道のようだと知ったのは彼によって、教皇フランシスコ誕生の年だったと思う。
昨日は偶然、彼の誕生日で日本太鼓をやってるカナダ人も来ていた。おそらく彼もかつて軍人であったのだろう。久しぶりの英語がよく聴き取れなかったが、アフガニスタンの話をしていた。
今朝の毎日新聞1面トップはアフガニスタン女性の記事だ。
米国ではなく、彼女こそ、世界の警察官だと思う。
今日はどこの『ミサ!』に行こうか。久しぶりに風呂に入ってから決めよう。
朝寝、朝酒はしないと言うかできないが(不作為犯ではなく不能犯。ミッション・インポッシブル)
朝湯ぐらいはいいだろう。
♬断腸ね〜~