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教皇の意向:子を失った親 (11月)

年間第七月曜日(2/20)

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信仰のないわたしをお助けください。

マルコ9:24
集会祈願

🌸 第一朗読 (シラ1:1-10)

シラ書
1すべての知恵は、主から来る。
主と共に永遠に存在する。
2浜辺の砂、雨の滴、
永遠に続く日々、
だれがこれらを数え尽くしえようか。
3天の高さ、地の広さ、
地下の海、知恵の深さ、
だれがこれらを探りえようか。
4知恵は、他のすべてのものに先立って造られ、
その悟る力も、永遠の昔から存在している。
5〔知恵の泉は、いと高き所にいます神の言葉、
知恵の歩みは、永遠の掟。〕
6知恵の根源が、だれに示されたであろうか。
その巧みさを、だれが知りえたであろうか。
7〔知恵がもたらす知識を、だれが見たであろうか。
知恵がもたらす豊かな経験を、
だれが理解したであろうか。〕
8知恵ある方はただひとり、いと畏き方、
玉座に座っておられる主である。
9主御自身が知恵を造り、
これを見て、価値あるものとされ、
造られたすべてのものの上に知恵を注がれた。
10主は、すべての人々に分に応じて知恵を与え、
主を愛する者には惜しみなくそれを与えられた。
〔主を愛することこそ、輝かしい知恵。
主は、御自分を示すために、知恵を分け与え、
こうして彼らは主を見るようになる。〕

 

🌸 答唱詩編 詩編93 典39 ①③

アレルヤ唱 典269 ㉙

🌸 福音朗読 (マルコ9.14-29)

マルコによる福音
 14〔その時、イエスは三人の弟子とともに山を下りて、〕ほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。 15群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。 16イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、 17群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。 18霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」 19イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」 20人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。 21イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。 22霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」 23イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」 24その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」 25イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」 26すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。 27しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。 28イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。 29イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 汚れた霊につかれた子どもが癒される話、というより、弟子たちが癒すことのできなかった話。
 中心は、癒しの奇跡そのものよりも、それを可能にする信仰、祈りのこと。弟子たちは、イエスから大きな権能を与えられていたはずだが、その子から霊を追い出すことができなかった。同じ伝承を扱うマタイでは弟子たちがイエスに問う、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と。イエスは言われる、「信仰が薄いからだ。・・・もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる」(マタイ17.20)と。「山を動かすほどの信仰」という言葉はここから来る。
 信仰は、大きい小さい、篤い薄いの問題ではない。むしろ、あるかないかの問題。どんなに小さくても、それがあるなら、大きな業をもたらす。マルコでは、父親ははじめ信仰がなかったように描かれている。しかしイエスとの出会いによって、信仰が呼び覚まされる。「信じる者には何でもできる」とイエスに言われ、彼は言う、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と。
 信仰は、自らの無力を意識し、それを認めることを前提とする。信じることは、人間的な手段、思わく、理由付けをいったん棚上げして、主にすべてを委ねること。あたかも、浮力を信じて、大空に舞い上がるようなもの。はじめから、その可能性を否定する者には与えられない恵み。信じること、そして、祈ること、それがはじめて神の癒しの業をもたらすことになる。(S.T.)

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

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