集会祈願
🌸 第一朗読 (シラ3:17-18、20、28-29)
シラ書
17子よ、何事をなすにも柔和であれ。
そうすれば、施しをする人にもまして愛される。
18偉くなればなるほど、自らへりくだれ。
そうすれば、主は喜んで受け入れてくださる。
20主の威光は壮大。
主はへりくだる人によってあがめられる。
28高慢な者が被る災難は、手の施しようがない。
彼の中には悪が深く根を下ろしている。
29賢者の心は、格言を思い巡らし、
知者の耳は、格言を熱心に聴く。
🌸 答唱詩編68 典34 ①②④
🌸 第二朗読 (ヘブライ12:18ー19、22-24a)
ヘブライ人への手紙
〔皆さん、〕18-19あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。
22しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、 23天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、 24新しい契約の仲介者イエス〔なのです。〕
アレルヤ唱 典272 (22C)
🌸 福音朗読 (ルカ14:1、7-14)
ルカによる福音
1安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。
7イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。 8「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、 9あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。 10招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。 11だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」 12また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。 13宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。 14そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
朝晩、ようやく夏の終わりを感じさせる涼しさが戻ってきました。ときおり、懐かしいつくつくぼうしの鳴き声が聞こえるようになりました。学校や幼稚園は2学期が始まろうとしています。暑さとともに猛威を振るったコロナははたして、収まるのでしょうか。夏休みの間、幼稚園の先生方の間にコロナに感染する方が次々に出、一時は休園の措置が必要かと思いましたが、幸い休み中で、登園する児童も少なく、僅かな職員でも、何とか乗り越えることができました。皆さんの身近にも、そうした経験をお持ちの方がおられると思います。
そんな、本人はもとより、周囲も辛い経験をしながら、何か教えられることがあったのではないかと思います。今日のみ言葉は、そんなわたしたちにぴったりの言葉を語ってくれます。第一朗読のシラ書の言葉です。「何事をなすにも柔和であれ。そうすれば、施しをする人にもまして愛される。偉くなればなるほど、自らへりくだれ。そうすれば、主は喜んで受け入れてくださる。」福音の中にも、似たような言葉がありました。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」辛い経験、思い通りにならない経験をすることで、人間は自分の弱さ、小ささを知り、へりくだることを学びます。主ご自身は、自ら、だれよりも辛い、苦しい受難を経験することで、わたしたちに柔和への道、へりくだりへの道を教えてくださいました。
しかし、今日のみ言葉は、ただへりくだりの教えだけではないように思えます。福音書のテーマは、聖書に度々登場する「婚宴」、つまり結婚式の宴会(披露宴)と深く結ばれています。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたより身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』というかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席につくことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、』もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で、面目を施すことになる」と。
教会では、なかなか前の良い席に座ろうとする方は少ないですが、昔のイスラエルでは、また、宴席では違っていたのでしょうか。しかし、この話は単なる身の振り方を教える話(処世術)ではなく、たとえです。聖書の中のたとえは、主に、神の国についてのたとえです。婚宴は神が人々を招かれる宴、招かれるのは神ご自身、招待を受けるのは、わたしたち人間です。神のお招きにどうお応えするか、それは、福音書に出るたとえのもう一つのテーマです。今日の福音の後半には、宴会に誰を呼ぶか、ということが取り上げられています。これも、ただ、結婚式や葬儀にどなたにお声をかけるか、という話ではありません。それも、実は避けて通れない大きな課題ですが。これも、神がだれをお呼びになるかということに目を向けさせます。イエスは言われます、「友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。・・・宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ」と。
神が人をお招きになるのは、人間の尺度とは違います。人がどう見るか、どう考えるかではなく、神ご自身の尺度でお選びになります。それは、わたしたち自身が、どのようなものとして呼ばれたかを考えればわかります。あの人でなく、自分が、あの優秀で、皆に注目されたあの人でなく、自分のような人間をどうして、神がお呼びになったのか、多くの人が感じるところです。聖パウロは書いています、「あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て、知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけではありません。・・・神は知恵ある者に恥をかかせるために、世の無学なものを選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力なものを選ばれました。・・・それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです」(1コリント1.26∼29)と。
そんな神の御心を味わい、感謝し、お互いに接する時に、そして、社会の中で、忘れられ、軽んじられている人、自らの弱さを感じている人に接する時、そんな神の心に少しでも近づくことができるよう、祈りましょう。それこそが、神の国を広げるための一歩になるのです。(S.T.)
自分では自分の姿が見えないことはおそらく幸せなこと少なくとも楽なことなのだろう。鏡に映っているのは自分ではない。自分の像だ。
ネットミサがはじまる!今日の冒頭大文字だけ見た。その通り!
久しぶりの🍖肉に高ぶりカツ丼二人前食べた,
まだぼく半人前なのに。 腹がおかしい。高ぶりすぎた。
近所の人が持ってきてくれた野菜で味噌汁を作り、ゆっくり食べて、休んで、ネットミサは昼からにしよう。
喰う寝る遊ぶ、ワルツは四分の三拍子。