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教皇の意向:子を失った親 (11月)

四旬節第二火曜日(3/7)

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仕える者になりなさい

マタイ23:11
集会祈願

🌸 第一朗読 (イザヤ1:10,16-20)

イザヤの預言

10ソドムの支配者らよ、主の言葉を聞け。
ゴモラの民よ
わたしたちの神の教えに耳を傾けよ。

〔お前たちの手を〕16洗って、清くせよ。
悪い行いをわたしの目の前から取り除け。
悪を行うことをやめ
17善を行うことを学び
裁きをどこまでも実行して
搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り
やもめの訴えを弁護せよ。

18論じ合おうではないか、と主は言われる。
たとえ、お前たちの罪が緋のようでも
雪のように白くなることができる。
たとえ、紅のようであっても
羊の毛のようになることができる。
19お前たちが進んで従うなら
大地の実りを食べることができる。
20かたくなに背くなら、剣の餌食になる。
主の口がこう宣言される。

🌸 答唱詩編 詩編 典

アレルヤ唱 典

🌸 福音朗読 (マタイ23:1-12)

マタイによる福音
 〔その時、〕イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。 2「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。 3だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。 4彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。 5そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。 6宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、 7また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。 8だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。 9また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。 10『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。 11あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。 12だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 ガリラヤ湖の北岸にある会堂跡には、「モーセの座」と言われる重々しい石の座が残されている。かつて、律法学者やファリサイ派の師はそこに座って、教えていたのだろう。はたして、イエスはそのような「座」から教えたのだろうか。むしろ、人々が生活する街中で、野原で、湖畔で、語られたのではないか。イエスは言われる、「彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは見倣ってはならない」と。彼らの行いは、人に見せるため、よく思われるためであると。
 さらに、「先生」、「父」、「教師」と呼ばれてはならない、あなたがたの教師はキリスト一人だけである、とも言われる。弟子たちに言われた言葉であり、同時に、マタイ福音書の著者が教会共同体に向けて発した言葉だろう。立場の違いを超えて、学ぶこと、倣うことの大切さを教える言葉ではないか。
 そして、最後に「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい」とある。「仕える者」(diakonos)、現代では、“men for others”と言い換えられている。聞こえはいいが、どこまで、実態がともなっているだろうか。本来の、人々に給仕する、手を汚す、皆が避ける仕事を引き受けることが、はたして、どれだけ理解されているだろうか。名誉や評価、報酬のためでなく、人々のために尽くす若者が日本の社会に、また、世界に、一人でも多く誕生することを願うと同時に、わたしたちの生き方がそれに一歩でも近づけるよう祈ろう。(S.T.)

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

1 comments

  1. 分かち合いの通り、イエスは、座から教えたりせず、人々の生活の中で語られと思う。

    practiceって、なんか不思議な言葉だ。
    練習なのか実践なのか。

    年下の知人が実は柔道の達人であると知った。
    変なライバル意識が生じ、昔、先輩が編集に関わった『古武術に学ぶ身体操法』という本をホコリの中から救出した。
    すると、別の知人が研究室でバイトしていた女性人類学者の本が引用されていて、
    カナダ北西部の狩猟民には「教える」「教わる」「学ぶ」という概念がなく、みんな生活に必要な技術を「自分で覚えた」というそうだ。
    常に実地、実践で覚えていて、あれこれのために練習しておこうという発想がない、と。
    そう言えばイエスの弟子もいきなり実践っていうか、3年そこそこで師匠が十字架上で死ぬなんて!
    practice makes perfect!

    そう言えば、パウロ自身も、私はパウロにつく、とか、アポロに、ケファに、、とか言わないで!
    成長させてくださったのは神です、って言っていた。

    そしてキリスト自身、へりくだって、どこまでもへりくだって、ついに十字架につけられるまでへりくだって、天にまで高められた(一応まだ四旬節中なので復活って言葉は使わないのが穏当?)。
    ともかく見ることと信じることは似ている。模範師範に対して弟子として。

    特定の空間としての教会に、なかなか行けないが、スマホでキリストの体である教会の雰囲気に与ることができる。
    ミサに一応与ることもできる。
    大変ありがたい。

    支離滅裂な文章となったが、生活のあらゆる場面でキリストに与り、からし種のように知らぬ間に成長していたい。
    神さま、どうぞよろしくおねがいします!アーメン。

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