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教皇の意向:子を失った親 (11月)

キリストの聖体(C)(6/19)

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イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、

ルカ9:16
集会祈願

🌸 第一朗読 (創世記14:18-20)

 〔その日、〕18いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。 19彼はアブラムを祝福して言った。
 「天地の造り主、いと高き神に
 アブラムは祝福されますように。
 20敵をあなたの手に渡された
 いと高き神がたたえられますように。」
 アブラムはすべての物の十分の一を彼に贈った。

🌸 答唱詩編 詩編110 典159①②

🌸 第二朗読 (1コリント11:23-26)

使徒パウロのコリントの教会への手紙

 〔皆さん、〕23わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、 24感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。 25また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。 26だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。

アレルヤ唱 典266(キリストの聖体)

🌸 福音朗読 (ルカ9:11b-17)

ルカによる福音

 〔そのとき、イエスは群衆に〕神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。 12日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」 13しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」 14というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。 15弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。 16すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。 17すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 聖霊降臨から2週間後の今日、教会は、聖体の祝日をお祝いする。主イエスは、最後の晩餐の席で、聖体を制定され、教会は、受難の週の木曜日にそれを荘厳に記念する。また、わたしたちは主日のミサに与るたびに、聖体の恵みをいただいているが、神の救いの業をじっくり味わった復活節を終えた今、あらためて「キリストの聖体」を祭日として祝うのはなぜだろうか。

 もう9年も前になるが、たまたまイエズス会管区本部の仕事の関係で、研修のためローマの会本部にゆくことになった。研修を終えた日曜日、就任されて間もないフランシスコ教皇のミサがあると聞いて、早朝、聖ペトロ大聖堂の広場へ行った。馬鹿に人が少ないなと思い、人に聞くとミサは11時からだという。一旦宿舎に戻って出直してみると、もはや用意された席は満席。やむなく遠くから、スクリーンを通しての参列となった。教皇の説教や長い式はともかく、一番印象に残ったのは、聖体拝領の光景だった。5000人は優に超える信者一人一人のために100人以上の司祭がいただろうか、立ち見の隅の隅まで聖体を配る司祭の姿に、妙に感動したのを今でも忘れることができない。

 ルカの福音で読まれたパンの増加の奇跡の折に、まさに、同じようなことがあったことをあらためて味わうと、聖体という教会の宝が一層、心に響くように感じられる。5つのパンと2匹の魚、あって無きに等しいようなわずかなものを使って、イエスが大きな業を行われたのは、ただ、神の大いなる力を誇示するためだったのか。決してそうではない。むしろ、5000人の人、一人一人のニーズに応えて、一人も除外することなく、神が必要なもの、人間が心の奥底で求めているものをお与えになる、そのことを現すためではなかったか。それこそが、イエスが自らの行いによって、さらには、ご自分の生涯を通して示そうとされた父なる神のあふれる愛なのではないだろうか。

 主日ごとに与るミサには、ことばの典礼と感謝の典礼という、二つの部分がある。ことばの典礼の中で、神のことばは、皆に語られ、それぞれが、霊に導かれて、神の思い、神の神秘を味わうよう促される。感謝の典礼において、ことばはイエスが最後の晩餐でされた振舞いに席を譲る。コリントの教会への手紙の中でパウロが記すように、「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われた」。主イエスは、生涯の終わりとなるその前夜、人々を生かす真の糧となるいのちのパンを弟子たちに渡し、それをご自分の記念として、世の終わりまで行うように命じられた。教会は、この言葉を真剣に受け止め、どんな状況の中でも、晩餐の記念を忠実に行い続けてきた。そして、その晩餐に与る者は、一人一人主の御体をいただく恵みをいただいてきた。そこには、主イエスを通して示された、人間一人一人に対する神の限りない愛がみなぎっている。どれほど多くの信者がいようとも、一人一人に、対面で、聖体を配るということは、これほど機械文明が発達した現代、いかにも非能率的なことのように思われる。しかし、それはオンライン・ミサでは決していただくことのできない恵みである。そこに、かけがえのない人格に対する神の愛があり、神の独り子があえて、一人の人間となられたことの究極的な意義が含まれていると感じる。人間同士の愛が、いつも具体的であるように、神の人間に対する愛も、具体的な人格に向かうもので、決して抽象化されるものではない。それを見事に表すのが聖体の秘跡ではないだろうか。

 今日、この大きな恵みを教会に残された主イエスに感謝しよう。そして、この聖体の恵みがわたしたち一人一人を生かす力であるだけでなく、わたしたちが一つとなって、同じ心をもって、神の国のために働くことを可能にするものであること、真の一致と平和をもたらすものであることを心に刻もう。そして、この大きな恵みに与るわたしたちが、今、世界が最も必要としている平和のために祈り、働くことが出来るよう祈ろう。(S.T.)

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

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