集会祈願
🌸 第一朗読 (エゼキエル34:11-16)
エゼキエルの預言
11まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。 12牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。 13わたしは彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く。わたしはイスラエルの山々、谷間、また居住地で彼らを養う。 14わたしは良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。 15わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。 16わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。
🌸 答唱詩編 詩編23 典123①②
🌸 第二朗読 (ローマ5:5b-11)
使徒パウロのローマの教会への手紙
〔皆さん、〕わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。 6実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。 7正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。 8しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。 9それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。 10敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。 11それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。
アレルヤ唱 典266(イエスのみ心C)
🌸 福音朗読 (ルカ15:3-7)
ルカによる福音
〔そのとき、イエスはファリサイ派の人々や律法学者たちに〕次のたとえを話された。 4「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 5そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 6家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 7言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
イエスのみ心の祝日は、神の人類に対する限りない愛を、目に見える形で示したくださったイエスの愛を象徴するみ心を讃える日です。イエスのみ心に対する信心(聖木曜日の聖時間、初金の守り、み心の祝日)は17世紀、フランスの修道女、聖マルガリタ・マリア・アラコクへの示現によって深められ、その指導にあたったイエズス会士、コロンビエール神父の貢献もあり、信心は全世界に広がりました。しかし、この神の人間に対する愛が、今日のような形で教会の典礼の中で記念されるまでには長い時間がかかったのも事実です。
今日の第一朗読ではエゼキエルの預言が読まれましたが、彼が活動した時代は、イスラエル王国が南北に分裂し、北王国がアッシリアに滅ぼされ、残された南の王国ユダがバビロニアの攻撃を受け、王様以下、指導者たちが皆、バビロンに連行される時代です。エゼキエルもその捕囚の民の一員として、苦渋を味わった人です。こうした民族の存亡がかかる状況の中で、もはや頼りにならないイスラエルの指導者に代わって神ご自身が、自ら羊の世話をするという、主の言葉をエゼキエルは伝えます。「わたしは自分の群れを探し出し、わたしは群れをすべての場所から救い出す。わたしは彼らを養い、憩わせる」「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」と。何と力強く、慰め深い言葉でしょう。
かつて、キリストに従う者を迫害したパウロは、復活したイエスに出会って、決定的な回心を経験します。そして、生まれ変わってキリストの宣教師となったパウロは、ローマの教会へ送った手紙の中で、はっきりと言います、迷った羊のためにいのちまで捧げ、神の愛を証ししたのが、人となられた神の子イエス・キリストであると。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示された」、「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです」と。イエスは十字架の死によって、そのような神の愛を見える形で示してくださったのです。イエスのみ心とは、そのことのしるしです。
ルカ福音書の中で、イエスは自ら語られます。失われた羊を見つけるために、あらゆる労苦を惜しまず、見つけた時にはその喜びを自分の中にとどめておけない羊飼い、そこに、人類に対する父なる神の限りない愛があると。
そうした神のいつくしみ溢れるみ心に、日々、自分を開いていけますように、そして、わたしたちも出会う人々に惜しみない心で接してゆけますように祈りましょう。(S.T.)
地元の生と死を考える会の代表を務めるお寺の住職さんが通信をもって来てくれた。そこにはデーケン師と会員の方々との出会いや様々な出来事と思いが書かれていて、硬くなっていた私の心が開かれた。地元の会は今年の12月で解散するそうだが、その直前の出会いに感謝している。